食べ損ねたパンケーキ
今から 僕が話をするのは、もし "未来" というものが既に存在していて、私たちはX軸のある値、"いま" にいて、正の方向に向かって私たちが時間を移動していると考えたらの話だ。
あなたは、何かを "手に入れた" ことがあるだろうか。もちろん、具体的な意味ではなく、"所有する"、"得る" といった意味の話だ。答えはきっとイエスだと思う。僕だって、限りないものを手に入れてきた。ガラスでできた水色のトカゲとか、黄色いブタの貯金箱とか。ところが、いまになってそれは本当に "手に入れた" のだろうかと疑問を抱き始めたのだ。
例えば、あなたの家に、あなたの読んだことのない本がある。"既に存在している未来" によれば、あなたは死ぬまでこの本を読むことはないらしい。では、あなたはこの本を手に入れたのだろうか。
「たとえ使わなくたって、例えば、読むことも、破ることも、燃やすことも、売ることも あなたがその本を自由にできるのだから、それは手に入れている。」
そんな声が僕には聞こえる。
違う話をしてみよう。あなたにパンケーキを食べられるチケットをあげよう。あなたは、僕の家にくればいつでもパンケーキが食べられる。シックな座り心地の良い椅子と、真っ白なテーブルクロスをひいたダイニングテーブルで、綺麗な白いお皿で、サービスに生クリームとバニラアイス、それにお好みで はちみつとメープルシロップも用意しよう。とすれば、あなたは今、パンケーキを手に入れたのだろうか。ところが、既に存在している未来によれば、僕がせっかく利用権を譲ったというのに、あなたはこのチケットを使うことはないようだ。では、あなたはパンケーキを手に入れてないのだろうか。うん、きっと手に入れてないだろう。
「いつでも自由に使える」そういった意味では、本もパンケーキも同じだ。それでも、君は何かを手に入れたとはっきりと言えるだろうか。
時間という概念の前では、手に入れるという行為は全て、仮定的、一時的なものでしかない。
きっと、僕は今まで、"手に入れた" "僕のもの" と思っていながら、既に存在している未来で食べ損ねるパンケーキがたくさんあるのだと思う。
あなたには、食べ損ねたパンケーキがありますか?