僕にとってピカソの絵がゴミな理由---LACMA来訪後に考えたこと

Los Angeles County Museum of Art(ロサンゼルスカウンティ美術館) 通称、LACMAヘ行ってきた。

 

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ロサンゼルスでは知らない人のいない有名な美術館。

 

 

かの有名なピカソの作品の数々から、アンディ・ウォーホルのキャンベルのスープ缶など見所満載のスポットだ。

 

 

僕もテンションがあがってしまい、記念にパシャり。

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僕はアンディーウォーホルの無駄のないタッチが好きだ。はっきりと描かれた明るくて綺麗なポップアートが好きだ。

 

 

突然だが、僕には、アートの才能がない。

 

もっといえば、絵を描く才能がない。

 

いや、少しまってくれ。

 

僕はこの「才能がない」という言葉が好きでない。

 

確かに、僕の絵はうまくない。

 

絵を描けば、小学生レベルと言われたり、下手だと言われる。

 

しかし、だからといって「才能がない」とは言い切れないと思う。

 

僕よりも上手く絵を描けるほとんどの人が僕よりも、はるかに多くの時間を僕よりも費やしてきたであろう。

 

そんな、「絵を描く」という行為にたくさん時間を費やした人と、あまり費やしてこなかった僕の絵を比較して、「才能がない」と言い切るのは間違った考え方だと思う。

 

違った例で考えてみよう。

 

僕はアイスホッケーが得意だ。幼稚園の頃に始めて、大学生になった今でも僕はアイスホッケーをしている。

 

だから、これから君と僕でアイスホッケーをしよう。

 

君はスケートをしたことがないかもしれない。

 

スティック(ホッケーで使う棒)を使ったことがないかもしれない。

 

そもそもアイスホッケーのルールすら知らないかもしれない。

 

僕は断言しよう。僕の方が君よりもアイスホッケーがうまい。

 

そして、僕が「君にはアイスホッケーの才能がない」といったら、君は反論すると思う。

 

当たり前だ。現在の実力からは、「潜在的な能力」や「伸び代」といった要素の「才能」は判別できない。

 

しかし、こと「絵を描く」「歌を歌う」「将棋やチェスなどのボードゲーム」などの身近な行為になると人はとかく「才能がない」という言葉を使いたがる。

 

しかし、これらの誰しもがやったこともある行為ですらも、実力差がある人たちの間には費やした時間の差があることも冷静になって考えてみれば明白だ。

 

(そうやって「頑張ってそれに時間を費やす根気」も才能の一つだ。と言い張る人もいる。僕ははっきりいってその考え方は屁理屈だし、負け犬の発想だと思う。その根気は才能ではなく努力だ。)(話が逸れすぎるので囲った)

 

さて、話をLACMAに戻そう。

 

そんなわけで、僕は「絵を描く」のが上手くないわけだが、美術館に行くことはとても好きだ。

 

美術館の独特の雰囲気のなかで、自分の気に入った絵画をのんびり探すことや、風景画の中にもし自分が入ったらと思って妄想をすることや、作品に魅入る人を観察することなどが好きだ。

 

しかしながら、僕には時々、さっぱり良さの分からない作品がある。こんなもの誰にでも描けるんじゃないかと思ってしまうものもある。そして、僕は今までそのような時に対して、先ほど話したロジックから、以下のような考えを持っていた。

 

「いずれの作品の作成者も、美術館に名前を連ねるくらいだから、友人に絵が下手だとバカにされる僕よりも遥かに「絵を描くこと」に時間を費やしてきたはずだ。つまりは僕よりも、上級者なのだ。だから、その作品の良さがわからないのは僕に画才がないからであって、この作品は価値あるものなのだ。だから、批判してはいけない。」

 

ところで、僕は今日、LACMAヘ一人の女の子と一緒に行ってきた。

 

彼女は日本人ではないので、当然僕は彼女と英語で会話をする。

 

彼女はとても刺激的だ。そして、いつも彼女は僕が今まで思いもしなかったことを言うのだ。

 

彼女は一枚の絵を見て、「ひどい」と言った。何枚かの絵に対して、「退屈」「私好みではない」といった。

 

彼女は美術系の専攻をとっているが、さきほどの僕の考えでいえば、彼女はそんなことをいうべきではない。

 

僕の考え方の視野がグッと広がった。

 

そうか、彼女にとってはあの絵は価値のないものなんだ。

 

けれど、こちらの絵は彼女にとっては価値のあるものなんだ。

 

考えてみれば、僕の視野は狭かったかもしれない。

 

絵の方向性はバラバラだ。

 

印象派、新印象派、反写実主義象徴主義

 

今でこそ美術館に展示されているが、時代によっては「下手くそ」と世間に揶揄されることもあった作品たち。

 

それらの感性を否定すべきではないと僕は思い直した。

 

もし誰かが、作者に向かって「下手くそ」というのであればそれは失礼な行為だが、自分の中で好き嫌いを選別することに罪はない。

 

僕は勝手に、全てを肯定しようとしていた。

 

良いと思ったものは良い、悪いと思ったなら自分が勉強不足。ずっとそう信じていた。

 

 

 

しかし、人間は複雑だ。

 

イチローのサイン付きボールも、野球を知らない子供には何の価値もない。

 

空腹で今にも死にそうな人には札束はただの紙切れだろう。

 

動物嫌いにペットの犬をプレゼントするのは迷惑千万だろう。

 

「価値観」はひとそれぞれ。

 

偉大な作品にも、「退屈」「好きじゃない」と言い切れる彼女の竹を割ったような物言いに、無垢な自己主張に、僕は素直に感心した。

 

 

この文章をここまできちんと読んでくれたあなたには今、いくつかの諺が頭に浮かんでいることと思う。

 

 

 

 

「猫に小判」「豚に真珠」「馬の耳に念仏」

 

日本人はこの考え方が大好きだ。

 

僕の先ほどの「美術館に展示された作品を悪いと思ったなら自分が勉強不足」という考えもこれらからきていた。

 

確かに、僕が美術館に展示されている絵に対し、「この絵は好きでない」と言う行為は豚に真珠なのかもしれない。

 

何故ならそれらは「一般的に価値あるもの」であり、僕にはその価値がわからないからだ。

 

しかし、正直になろうじゃないか。

 

世界にどれくらい、ピカソの絵を自己の感性で素晴らしいと思える人がいるだろうか。

 

馬の耳に念仏と言われるのを恐れて、周りに合わせて良い者だと言い張る人がどれくらいいるだろうか。

 

今の僕にとって、今日LACMAで見てきた、ピカソの絵(シュルレアリスムからゲルニカにかけて)はさっぱり良いと思えないものだった。

  

もちろん、それを心底良いと思えるプロの人もいるのだろう。

 

しかし、もう今後、僕は自分の感性で良いと思えない作品に対して、世間の評価を盾に肯定することはやめようと思う。

 

小学生のころに美術の教科書のゲルニカをみて、「なんだこれ」と思った無垢な僕を認めてあげようと思う。

 

猫に小判でいいじゃないか。

 

好きな絵は好き、好きでない絵は好きでない。

 

僕は今の自己の感性を否定するのをやめることにした。無知を認めることにした。

 

そうやって少しずつ、アートへの見識を深めて行くことにした。

 

 

なんだか、次の美術館に行くのが楽しみになってきたなあ。

 

 

 

 

 

 最後まで読んでいただきありがとうございます。

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