重要なのは「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」でもなく。

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”世の中はおかしい。”

”「何を言ったのか」という本質的な意見を解釈するのではなく、その意見を「誰が言ったか」で反応が変わるのだ。”

 

 

聞き飽きたセリフだ。そして、大抵この意見をいうのは「誰」として当てはめた時に良い反応をもらえない人たちだ。つまり、「僕だって同じことを言ったのに何で僕は認めてくれないで、あの人は認めるんだ!」という子供っぽい嫉妬からくる言い訳だ。

 

(この後は、「誰がいったか」を「送信者」、「何を言ったか」を「意見」として続けます。)

 

 

世の中では、たしかに「意見」を吟味することが本来あるべき形であるにも関わらず、「意見」は軽視されがちだ。

好感度の高い芸能人が、犯罪を犯して釈明をすると「本当はいい人だから気にしないで!」「それでも好きです!」という反応が帰ってくる。ホットな話題で言えば、TOKIOの山口さん、少し前で言えばNON STYLEの井上さん(ノンスタ井上)などがあたる。

好感度の低い著名人が似たような犯罪をして釈明をすると「やっぱりやると思ってた。」「別に驚きもしないけど、二度と人前に出てきてほしくない。」などと世間の風当たりは冷たい。あえてこちら側の例はあげないこととする。

 

だから、「意見」よりも「送信者」が大切なのだ。

というのが多くの人の主張だ。

 

「一悪を持って衆善を忘れず」という考えによるものかもしれないが。

 

しかし、僕はあえて否定したい。これは的を射ているようで、どこか僕には蟠りの残る意見だ。

 

僕は、思う。正確には「何を言うか」でも「誰が言うか」でもなく、「誰に言うか」が大切なのではないか。つまり、「受信者」だ。

 

好感度の高い芸能人が、犯罪を犯したことに対してそのことを彼らのファンに批判してみたところでなんの効果もないのだ。

 

どれだけ、重たい罪なのか、どれだけ間違ったものなのか淡々と論理的に説明してもそこに何ら意味はない。なぜなら、彼らはその芸能人を盲信しているからだ。

 

これは、18世紀のヨーロッパで神の存在を盲信している信者にこんこんと進化論をといたダーウィンのケースと似ている。彼らは、論理的ではないのだ。中には、情報を整理し、自分の意志で反応を返す人もいるだろう。しかし、大抵の場合は、周りの雰囲気に流されてしまう。少数派の意見をまともに取り合う人はほとんどいない。「宗教」というものは、薄れてきている一方、PR会社やマスメディアによって生み出される印象に「信仰」する精神において、人間は変わらない。僕はマスメディアの陰謀論を唱えたいわけではない。ただ、人間は何かを信じている。それは人間の本質的なところであると思う。僕だって何かを信じている。しかし、信仰は論理的でない。ゆえに、意見というものが効果的かどうかはそれを受け取る相手次第だ。

 

 

非常に幸運なことに、僕の文章や作ったものを素晴らしいと褒めてくれる人がいる。(もちろん親しい友人だが)それは彼らが僕の意見に耳を傾けてくれているからであると思う。僕に心を開いているからだと思う。つまり、この文章がつまらなければ、「僕」が悪いのでもなく、「この文章」が悪いのではなく、この文章を読んだ「あなた」が悪いのであしからず。