Allegory of the cave
はじめに
(葛西臨海公園で撮った黄色いコスモス。以下の文章とはとはまったく関係なし。)
お久しぶりです。ねおらるです。まったく更新していなくて、何か書こうと思ってつらつら書き出してまとめた文章なので、まとまりがないかもしれませんがあしからず。
日本の友人たちとの再開
日本に一ヶ月帰省して、様々な人間ドラマが僕にはありました。それは、綺麗なものもあれば汚いものもありました。それらの出来事は良くも悪くも僕の心境を変えました。
変わらず接してくれる地元の友達の暖かさ
またここでくだらない話をくっちゃべられるように、頑張ろうと思わせてくれました。 僕の地元の友達はハイスペック野郎共ばかりで、なんだか自分が才能のカケラもなく、コツコツと実力をつける堅実性もない、ポンコツに思える時もあります。しかし、同時に、彼らのようになりたいという自分の向上心を刺激してくれる存在でもあります。しかし、彼らは、僕のバックグラウンドに影響されず関わってくれるよき友達です。
自分に会いたいと言ってくれる、自分を認めてくれる友達。
どういうわけかわからないけれど、こんな僕を評価してくれる友達も何人かいます。彼らは「お前は将来、絶対に大成する」と言ってくれます。根拠もなく、僕を信じてくれる彼らのためにも僕は頑張りたいと日々背中をおされる思いです。
実力主義で、これといった尖った武器のない僕を見下している友達。
正直言って、彼らとの会話はあまり楽しいものではありません。彼らはよく、ぼくに「君は小難しい言葉を使って、相手を煙に巻こうとする節がある。賢く見られたいという意思が透けて見える。」といったことを言います。めちゃくちゃ傷つきますが、そういった自分の側面はわからなくありません。自分を戒めてくれるいなくてはならない友人達だと思っています。
小学生のクラブ時代のチームメイト。
アイスホッケーという非常にお金のかかるスポーツを子供にやらせることができる親の経済力を受けてか、仲の良いチームメイトの多くはエリートコースを歩んでいます。
考えたこと
彼らは僕の視点で見れば、みな違った生き方をしています。違った環境で、違った価値観を育み、ある人たちからすれば「くだらない」と一蹴されることに懸命になっています。
僕がアメリカ留学をしたい、日本の外で生活してみたいと思った一番の理由は視野の拡大でした。 世の中には周りの見えていない人がたくさんいます。
身近なアルバイトで例をあげてみます。 ある日、8人ぐらいのメンバーで飲み会をしているとき、会の終わり側に僕は店員さんに「お水を全員分お願いします。」といいました。店員さんは快く引き受けてくれましたが、飲み屋でバイトをしている友人に強く咎められました。「どうせ、全然飲まないくせに全員分のおみずを一応頼むみたいなのは大変だしムカつくからやめろ」といわれました。 たしかに僕には飲み屋の店員さんの大変さがわかっていなかったのかもしれません。
お店のマナーを守らず、店員さんに横暴な態度を取る人がいます。彼らは店員の気持ちがわからないのかもしれません。
僕がアプリ開発のバイトをしていたといったら、このアプリのバグを直してくれとスマホを手渡されたことがあります。「スマホを手渡されてもソースコードにアクセスできるわけではない」という説明は理解できないので、ただ「それはできない」というと、「融通がきかないなあ」といわれました。
趣味の話でもそうでしょう。 近年、e-sportsが話題ですが、「そんなものは競技でもなんでもない。スポーツとゲームを一緒にするな」と激怒するひとがいます。
もっと国際的な話をすれば、
まだまだ日本人はLGBTへの理解が遅れています。
日本人の友人に「やっぱり◯◯人は…」といったレイシズム的発言を平気でいう人もいます。
別段、深く話したこともないのに「ヨーロッパ人はアジアンを見下している」と被害妄想を膨らませる人もいます。
自分の視点を平気でおしつけるひとは多いです。
そんな人を見るたびに、視野が狭いなあと思うのです。
そして、場面によっては僕もその一人だと思います。
狭い思考回路の世界で生きていくのも人の選択であり、自由です。
ただ、僕はその事への漠然とした恐怖があるのです。
プラトンの「国家」の中に、洞窟の比喩というものがあります。 (意味は以下の動画参照。英語だけど短くて簡単な動画だから是非見て欲しい) https://youtu.be/1RWOpQXTltA
この動画自体がソースの概要で、それを僕がさらに要約すると正確性が損なわれるので、僕の解釈だけを述べれば、パラダイムシフトの起こった人、またはHigher consciousness(直訳すれば「意識高い」だけれど日本語では意味合いが違うので英語で表現しています)を得た人と、そうでない人との確執問題だと思います。
僕は現在、23歳です。
僕らの世代は今、人生の大きな変化の渦中にいます。
友人たちは、就職して働きはじめています。その態度は様々です。過酷な環境で勤めて日々ストレスを溜め込んでいる人、あまり学生時代から変化のない人、むしろ学生時代よりも自由がでてきて人生を楽しみ始めた人。
来年の春から就職する学生たちは、最後の学生生活を惜しみのないようにと奮闘しています。
僕らは否が応でも、将来設計を考えさせられる年齢となりました。 与えられた課題をなんとかこなして、とりあえずテストを乗り切れば他者に評価されていた制度から抜け出そうとしています。
考え方から柔軟性が消え始めるのは我々の年齢からのような気がします。
新たな考え方、自分とは違う考え方の人を受け入れられなくなっていく年齢だと思います。
否が応でもそうなっていくのでしょう。どの世代も、上を老害と罵り、下を「これだから最近の…」と否定するのでしょう。
僕らの視野は確定しつつあります。
就職するかもしれません。 社会人になるかもしれません。 しかし、できうる事ならば今のうちに広い視野を持ち、30代、40代になったときに柔軟に人生を楽しめる人になりたいものです。