気持ちを書くブログ

写真撮影、コンピュータが好きです。あと本とゲーム。落語も好き。おしゃべりも好き。

情報中毒患者のあなたへ処方箋

はじめに

Infoxication:インフォキシケーション という言葉をご存知だろうか。 これは情報と中毒の複合語で、情報中毒という意味である。私は過度の情報中毒であることを実感した。情報中毒患者は、ひとつのことに集中することができない。しかし、この文章は私も含めた、情報中毒患者である人々へ向けて書かれた。ぜひ、心当たりのある方は、SNSの通知に惑わされず、少しの忍耐力を持って、この文章を読みきってほしい。

最近の私

まず、直近の私の話をしよう。私はアメリカに留学中の大学生で、現在2週間ほどの短い春休みの真っ最中だ。春休み前に遅れを取っていた授業の復習をして、春休み明けには余裕を持って授業に挑みたいと思っていた。私は、休みのスケジュールを、友人と遊ぶ日やスポーツをする日を除き、家で1日勉強することに決めた。そして、私がその「1日勉強する。」と言いながら実際に行ったことを紹介しよう。これは私の恥部でしかない。本当にクズだなと嘲笑って欲しい。

私がまず初めにしたことは、パズドラである。ずっとやめていたパズドラだが、久しぶりに友人との会話のタネに再開したらハマってしまった。目覚めたのは朝の10時ほどだったが、朝に目覚めて、第一にスマホを手に取り、ベッドの中でパズドラを始めた。パズドラをしながら、ちょくちょく、ツイッターを覗いたり、メールをチェックしたりした。また、パズドラだけでは味気なく思い、パソコンを開き、Youtubeで実況動画を流しながら再びパズドラをやった。そんな風に時間を潰し、気づけばもうお昼だった。「やばい、勉強するんだった」と思いつつも、とりあえずご飯を食べようと思い、台所へと向かった。もちろん、スマホを片手にYoutubeを見ながらである。あり合わせのご飯をつくり、パソコンの前に戻った。そして、パソコンでYoutubeを流しながら、右手にお箸でご飯を食べながら、左手でパズドラをプレイした。僕の脳が今、受け付けている情報は、膨大なものである。目で見るYoutubeからの情報、そして舌からの情報、さらには両手を操作する感覚からくる情報。僕は何一つとして集中していない。意識が散漫として、頭がぼーっとしてくる。小学生の頃、厳しかった塾の先生が「テレビを観ながらご飯を食べてはいけません」と言っていた。あれは正しかったのかもしれない。気づいた時には、その日はスマホをいじって夕方になっていた。流石にやばいと思って、数学の教科書を開いた。しかし、無音の空間が寂しく思い、耐えきれず、音楽をかけた。J-popが部屋に響き渡る。頭の中では、パズドラのスタミナがそろそろ回復するかもしれない、LINEがきているかもしれない。Twitterで友人がつぶやいているかもしれない、メールがそろそろくるかもしれない、Youtubeに新しい動画が投稿されているかもしれない、そういった情報が渦巻いている。そんな頭で、まともに勉強は捗らなかった。

勉強だから集中できないということではない

これは勉強中だからというわけではない。何をやっていてもそうだ。Youtubeで面白そうな動画を再生しながらも、同時に、もっと面白い動画はないかとサーチを同時にやっている。ブログやツイッターなども、自分の興味のありそうな部分以外は読み飛ばしすっ飛ばし、一つのものをじっくり読み込むことや考察することはしていない。完全に情報の多さにラリってる状態なのである。近年のゲームはどんどんと楽になっている。その理由は簡単である。情報中毒の若者は、じっくりと考えなければならないゲームはクリアできないからだ。少し難しければ、ぐぐって答えを見つける。自分で考えたり、試行錯誤することができないのだ。情報中毒とは、言い換えれば楽に「答え」を求め続けているのだ。私が友人に本を読むことを勧めたところ、「それがなんの役にたつの?」と言われた。ネットでググって答えを見つけることに親しんだ人は、即効性のある知識を求めるので、「数学や歴史の勉強をしてなんの役にたつの?」という小学生のような疑問を抱く。しきりに、「それがなに?」と聞くのだ。彼らが唯一興味をもつ本は、「誰でもラクラク!」とか「〜するだけで簡単に」という耳障りの良い詐欺商品のような文言のついた本だけだ。

情報中毒とは、一見すると、良いもののように思える。新たな知識を得ることは素晴らしいことだ。しかしながら、情報中毒の人の集める情報は役に立たないものばかりだ。「情報が知りたくて仕方がないから、量子力学の本を読破してしまう。」などということは起こらない。人間には、「知っていることをより知りたい」という欲求があるらしい。つまりは、パズドラとかSNSとか、とりとめもない、来週や来月にはどうでも良いと思っているような個人的な物事に意識を傾けてしまうのだ。さらには、見落としがちな考えであるが、そういったSNSに溢れかえる情報量は膨大である。一人の人間にはとても処理しきれる量ではないのだ。そこで、私はある考えが浮かんだ。

コンピュータの比喩

私の専門分野であるコンピューターサイエンスの分野で、ムーアの法則という言葉がある。これは、端的に言えば、コンピューターの性能は指数関数的に飛躍する。という意味である。かつて、現在のスーパーコンピュータのように何メートルもある巨大なコンピュータが、現在のスマホでなら一瞬でできるような計算を1日かけて計算していた。経済学者や数学者たちは、各々の処理したい計算(情報)を、コンピュータの前に順番に並んで待っていたものである。そんな姿を思い浮かべて欲しい。そんな時代もあったのだ。人間の脳みそは、コンピューターに似ている。何かを情報を一定の時間で噛み砕くのだ。それには時間が要する。コンピューターは指数関数的に性能を飛躍させた。そのため、誰もがコンピュータにアクセスできるようになった。数学者や経済学者など、限られた賢人だけが並んでいたその列に、意識高い系大学生や、主婦、バカなYoutuber、中学生、誰でも並べるようになった。そして、彼らの処理した情報は、新たに”発信される情報”として、社会に散らばっていくこととなった。情報化社会である。情報化社会以前、世間に広がる情報は、賢人たちによる推敲を重ねた価値ある情報だった。だから、「本を読む」ということは人類の叡智に触れる価値ある生産的な行為だった。また、そこには“すぐ役に立つ安い知識“は存在しなかった。しかし、情報化社会は、その情報の価値、意図、真偽、それら全てを無視して、”話題性”が最も優先されるものとして拡散された。賢人たちの知識は情報の海の底に埋没し、人の目を引くような奇妙奇天烈なもの、すぐ役に立ちすぐ役に立たなくなる陳腐なものが社会を席巻した。その筆頭がYoutuberである。僕は常々、Youtuberの悪口を言って、友人に「僻みかよ」と揶揄されるが、根本はこれによって堕落した自分への個人的な恨みである。Youtubeで溢れかえる、目を引くようなとりあえず再生してみたくなるような”キャッチーで陳腐なアイコン”に踊らされたことは誰でも一度はあると思う。むしろ、若者たちはそれに毎日踊らされている。いや、むしろ、発信者たちも情報化社会に飲まれた被害者なのかもしれない。

もう一度、さきほどの例を思い浮かべて欲しい。昔のオンボロコンピュータの前に並ぶ、賢人たちの姿を。それを私たちの脳に置き換えて考えてみよう。コンピュータは飛躍的に性能を向上した。しかし、人間の脳みその性能は情報化社会の前も現在も不変である。溢れかえる陳腐な情報たちが、その従来のコンピュータの前で所狭しと並んでいるのだ。それが、僕が先ほど書いた”SNSパズドラが気になり集中できない”状態である。私たちが処理できる情報量は限られているのに、送られてくる情報は日々、多様化、個人化し、量を増してきている。私たちの脳というコンピュータの列には、貴重な入力されるべき情報は端に追いやられ、Twitter、インスタ、ソシャゲ、Youtuberなどの陳腐な情報たちが我が物顔で列に並んでいるのだ。それらの情報は留まるところを知らず、無限の列をなしている。生産的な、価値ある情報の入り込む余地がない。言い換えれば、集中力、感受性の欠如である。

かつての、友人や恋人、家族からの紙の手紙が届き、それに一喜一憂して、時間をかけて自分の頭で考えて返信を書いた時代から、

一瞬でどんなメッセージでも送りつけられる時代になり、メッセージが届いても鬱陶しいと思ったり、何も考えないで返信をしてしまう時代へと移行した。

対抗手段

そんな時代に、人間性を失わずに生きていくには、私たちは情報の取捨選択をしなければならないと僕は思う。このままでは、流れ来る、「どうでもよい陳腐な情報」に脳の処理を持っていかれ、私たちは何かに思いを馳せることも、自分の意見をもつこともできない。さて、ここで、では情報中毒の直し方はなんだろうとググって答えを探すようでは、パラドックスである。もちろん、他者の意見を仰ぐことは重要だが、人の考え方は千差万別であるので、答えを誰かに求めるのではなく、試行錯誤して自分なりに答えを探すという過程がもっとも大切である。最後に、具体的に、どんなことを僕が今後実行していきたいかを記して、今日のブログを締めくくろうと思う。しかし、なんどもいうように以下のは答えではなく、一例にすぎないと思う。

  1. 耳栓をする。本を読む時や、勉強する時、なるだけ情報量を少なくしたい。音楽やラジオはご法度。
  2. SNSを減らす。SNSが諸悪の根源のような書き方をしてしまったが、SNSが現在の友人関係の大きなツールの一つであることは僕もわかっているので、一つにしぼって消してみてはどうか。
  3. 文章を書く。文章を書くという行為は、集中力を要するし、受動的ではなく、能動的な行為で、頭がすっきりするのでぜひ試して欲しい。日記でも良いし、僕に感想を送りつけてくれると泣いて喜びます。
  4. マルチタスクをやめる。ながら作業をできるだけ無くそう。食事のときは食事、勉強の時は勉強、音楽を聞くときは音楽。一つのことに集中。
  5. デジタルデトックススマホの電源を切って、解放される時間を設けよう。

以上が僕の情報中毒にラリった頭で考えられることである。また、同じように情報中毒に苦しみ、そこから抜け出したいという同士はぜひ、声をかけてほしいと思う。どのように解決できると思うか、ぜひあなたなりの考えを伝えてほしい。辛抱強く最後まで読んでくれたあなたはすでに一歩、情報中毒から抜け出していると思う。最後まで読んでくれてありがとうございました。