気持ちを書くブログ

写真撮影、コンピュータが好きです。あと本とゲーム。落語も好き。おしゃべりも好き。

飴玉

一つの飴玉を舐めきるのに、何分かかるのかを測ってみたことがあるだろうか。 僕はある。13分弱だった。使用したのは至って普通の飴玉で、直径は百円玉ぐらいの大きさのブドウ味だった。ところで、僕はブドウ味のキャンディーが好きだ。しかし、そんなことは今はどうでもいい。飴玉が口の中に入り、ひとときの甘美な時間を僕に与えてくれる。そして、その猶予は13分弱だった。

僕は小学生の頃、近所でも評判のスパルタの塾に通っていた。60代ぐらいのハツラツとしたおばあちゃんが一人で切り盛りしている塾で、怠けた生徒には昭和仕込みの鉄拳が待っていた。早寝早起き朝ごはんと念仏のように唱えさせられたり、雑記帳と清書帳と各教科にノートはそれぞれ二冊書かされた。僕はそこで、あまり真面目な生徒ではなかった。よく宿題もサボっていたし、授業中に寝たりもした。授業中に大声で怒鳴られ、みんなの前で泣きべそをかいたりしていた。その塾は90分という小学生には長い授業時間がであった。普段の小学校の45分の授業も耐えきれない僕にとってその塾は苦痛でしかなかった。しかし、確かあれは毎日ではなかったが、先生が飴玉をくれることがあった。90分という時の牢獄の中で苦しみ喘いでいた僕には、その飴玉はせめての救いであった。回ってきた飴玉の袋の中からブドウ味の飴玉を選びとって取り出した。その飴玉は、綺麗な球体状の形をした大玉であり、なかなかなめごたえのあるものであった。糖分は勉強するエネルギーになるから、これを舐めたらより一層頑張るようにと念を押されて僕らは食べた。そして、先生も同時に一粒、口に放り込んだ。しばらくたってから、先生が口を開いて飴玉を生徒たちに見せた。その残り玉は、僕の口の中の残り玉よりも明らかに大きかった。子供の考えることは単純だ。ずるい、羨ましいと思った。そして、先生は飴玉はそっと舐めると長く楽しめる。コロコロと歯に当てたり、ガリガリ噛んだりしてはだめだと言った。大切に少しずつ舐めれば長持ちするのだと。その話のした次の日からは、子供たちが互いにどれだけ口の中で飴玉を取っておけるかを競い合い自となった。先生も子供に負けじと競っていた。僕は皆を出し抜いてやりたいと思った。ある日、僕は配られた飴玉を皆と同時に口の中に入れて、しばらくしてから他の子にみられないように飴玉を包み紙に吐き出した。そして、10分ほどたってから再び口に戻した。そして、教室の全員が飴玉を舐めきったタイミングで満を持して口を開いて周りの友人に見せた。周りはすごいすごいと褒めてくれたので、調子に乗って続けて僕は飴玉をガリガリと嚙み砕いた。その音を聞きつけた先生が僕の頭にゴチンと一発ゲンコツをかました。僕はやっぱりこの塾が嫌いだ。小さな子供が、目の前のたった一粒の飴玉を包み紙に戻して誘惑に負けずに我慢することにどれだけの忍耐が必要なのかを知っているのかと言ってやりたくなった。しかし、そんなことをいえば全てが水の泡になってしまう。僕はまた一人、情けなくなってほろほろと泣いた。

今でも飴玉を口にいれる時に、そんなことを考えることがある。 この一粒の飴玉は、何分、僕の口の中で、甘い幸福を与えてくれるのだろう。

毎日書く。

 毎日何かを書きたいと思う。と、思うことがある。というのも、別に毎日書きはしないからだ。けれども、熱心な物書きではないにせよ、小説を執筆(ほとんどただの日記のようなもの)している身からすると、何気ない瞬間に文章を頭で構成してみることがある。それを書き起こしたいという熱が、家に帰るまで冷めなければ書いてみる。だから、書く日もあれば書かない日もある。頭の中の構成は次の日には忘れてしまう。だから、その日のうちに書かないといけない。だがよく忘れてしまう。


考え事をする時間が昔よりも減って来たような気がする。小学校の頃は、今よりも考え事をすることが多かったような気がする。退屈な授業中とか、帰りの電車の中とか、家でつまらないテレビ番組しかやってない時間とか。とにかく手持ち無沙汰な時間がたくさんあった。僕はどうにか遊びを捻出していた気がする。頭の中で空想を広げてみたり、今日の友達や先生との会話を思い出して、あの人はあの発言の裏ではどんなことを考えていたのだろうと思ったりした。今は、あまりそういう時間がない。暇されあれば、イヤホンを取り出して音楽を聞いたり、友達にラインをしたり、ソシャゲーをしてみたり、やることがたくさんある。いつからか、僕の頭は脳死した。少しずつ、これから蘇生していこうと思う。毎日文章を書けるといいな。

原動力

はじめに

ねおらるです。今日はポエムデイです。今からポエムを書くので、こういうの恥ずかしくて読んでられないよー!って方はここでおやめください。逆に、人のポエムみてニタニタが止まらない人はそのままお進みください。どうぞ。

原動力

ふと、自分が何をしているんだろうと考えることがある。

頭の中で、やるべきこと、やらなくちゃいけないこと、悩み、イライラ、やりたいこと、うまくいかないこと、無秩序に思考が駆け巡る。まとまりのない、ぼんやりとした頭で、焦燥感だけを感じている。

「このままじゃあ、いけない」

ただそれだけが聞こえてくる。何をするべきかわからない。何をしたいのかわからない。

ただ、このままじゃあだめだ。そういう声だけが聞こえてくる。

それでも何をしたらいいのかわからない。何をするべきなのかわからない。

僕を今動かしているものはなんだろうか。僕の原動力はなんだろうか。

何がやりたくて、いまここにいるんだろうか。

いま、何がしたい?未来で何がしたい?何が好き?何が嫌い?

わからない。僕は反作用のような人間だ。

右に行こうと言われれば左に向かう。赤が好きかと言われたら黄色が好きだと言う。

”僕はこれが好き!”

そう断言できる人が羨ましい。僕は何も好きじゃない。

何もかもが有り余っている。

すぐにこう思ってしまう。

「別にこれも要らないや。」

たまに何もかもを捨ててしまいたくなる時がある。

部屋の中を見渡す。これもいらない。あれもいらない。

どれも心はときめかない。

何も食べたくない。何もみたくない。何も聴きたくない。

小さい頃によく聞いたフレーズがある。

"親がやれやれってうるさくてさー"

友人たちがよく、親の意向に従順にしたがったり、または反発したりしていた。

親がレールを敷いてくれていたんだろう。

それは、一見つまらないように思えるかもしれない。

しかし、それは彼らの道しるべとなっただろう。

険しい道かもしれないし、間違った道かもしれない、彼らの歩みたい道筋ではないかもしれない。

けれど、そこには足跡があっただろう。

僕の親は、そういうことを言わなかった。

"やりたいことをやりなさい"

そういって、何も強制しなかった。

自由な道を選ぶことができた。そして、どちらへ行きたいといえば、目の前にレールを敷いてくれた。

しかし、僕にはわからなかった。均された平坦な道を歩きながら、ぼんやりとしていた。

僕は何が好きなんだろう。何処へいきたいんだろう。わからない。わからない。

たまに何かを気に入ることがある。欲しいものが見つかることがある。

しかし、大抵のそれは、手を伸ばすと簡単に手に入った。そして、しばらく眺めたあと、僕はすぐにそれを道端へ捨ててきた。

惰性で何個か、ポケットにそれらは入っている。

たまに、ポケットからそれらを取り出しては、「これもいらない」「あれもいらない」

そういって、道端へ捨てていく。

僕は今、何をもっているのだろうか。何が欲しいのだろうか、どこへむかっていくのだろうか。

レールの上で忙しそうに走り去る友人たちを、取り残されてぼんやりと眺める僕は、再び焦燥感に襲われる。

なにか、しなきゃ。なにか、しなきゃ。僕には何があるだろうか。

そして気づく。そうか、僕は何も持っていないんだ。

後ろを振り返ってみる。

父さんと母さんが、僕の捨てたものを愛おしそうに拾い集めていた。

"どうして、こんなに良いものを捨ててしまったんだい"

そうか、僕の原動力は、これなのか。

気づいた僕は再び歩き出すことにする。

友人の背中は遠い。でも、僕には見守ってくれる人がいる。

ゆっくり、歩いて行こう。

大麻って本当に悪いの?

はじめに

*大麻所持は犯罪です。絶対にやめましょう。

こんにちは。お久しぶりです。新しいRoomieが引っ越してきて、ご機嫌のねおらるです。

KAT-TUNのメンバーの田口淳之介さんが大麻所持の容疑で逮捕されました。リーガルハイの蘭丸役が好きだったので、とても残念です。まあ、もともとジャニーズ脱退した時点で事務所の圧力でジャニーズ時代の仕事を引き受けるのは厳しかったかもしれませんが。マリファナ、いわゆる大麻が合法であるアメリカ合衆国に在住する個人として見解で、法と大麻についてまとめてみたいと思います。日本に在住する皆さんよりも、大麻が身近な存在として、冷静な意見を述べたれたらなと思っています。

また、自己擁護と取られたら一溜まりもないので、一応、私個人の話をしておきますが、私は付き合い程度にしかお酒も飲みませんし、タバコも大麻も吸ったことはありません。もちろん、脱法ハーブ、LCD、コカイン、覚せい剤などのドラッグもやったこともなく縁もゆかりもありません。個人的な気持ちとしては、お酒飲んでイキリちらす大学生は脳みそ空っぽのバカばっかだと思っているし、タバコやアイコスを吸ってかっこいいと思ってる人もクソダサいと思っているし、違法薬物をやる人も軽蔑しています。しかし、それは個人的な見解であって、意固地にならずに、もっと俯瞰的な第三者視点で、落ち着いて情報を整理してみるともっと実情が見えてくると思うので、今回はその情報と考えをまとめてみたいと思います。

この文章の目的は、 「田口って大麻やってたの!!ヤク中じゃん!!シャブ中じゃん!!大犯罪者じゃん!!ピエール滝と一緒じゃん!!がっかりだよ!!」という考えの人の視野を少しでも広げたいというものです。決して、大麻を吸おうぜと扇動するものではありません。そこで、思考停止するなと言いたいだけです。

まずは大麻と麻薬の区別をしよう

まずこのトピックを語るにつれて、必要となってくる予備知識がいくつかあります。日本人は、とかく頭でっかちなので、大麻=禁止薬物=コカイン=覚せい剤=etc.という方程式を組み立ててしまいます。しかし、禁止されているものとは言えど、大麻覚せい剤では人体に及ぼす影響がまったく異なります。覚せい剤は明らかに、身体的にも精神的にも中毒性と健康被害が認められており、海外の国々、もちろんアメリカでも違法です。一方で大麻は、日本では禁止されているものの、アメリカ、カナダ、オランダ、スペインなどの一部地域では合法です。日本人のお酒やタバコの感覚とまったく同じと言ってよいでしょう。しかし、コカインや覚せい剤は別です。日本で禁止薬物だからといって、人体への影響について誤認識しないようにしましょう。つまりは、ピエール滝や酒井法子と、田口淳之介が犯した罪は同じではないということです。日本の法律上の罰則でも、大麻は5年以下の懲役、覚せい剤は10年以下の懲役と区別されていることがわかります。

酒とタバコと大麻の話

近年では、日本での大麻合法化を主張する声も少なくありません。しつこいようですが、私は賛成でも反対でもありません。しかし、おそらくこれを読む日本人的感覚(つまりは合法化反対派)をお持ちのあなたが、合法化を主張する人の意見を一応理解できるように述べていきたいと思います。まず彼らが主張してくるのは、このサブタイトルにもあるように、酒とタバコとの比較です。日本人の多くは"酒は百薬の長"という、科学的根拠などという概念が生まれる遥か前に言われた言葉を信じています。 こちらのソースでもアルコールを完全に飲まないグループよりも、嗜む程度に飲んでいるグループの方が統計的に健康体であると主張しています。しかし、"お酒を飲まない"のではなく"飲めない"虚弱体質の人がお酒を飲まないグループに含まれてしまうため、これは統計学のトリックであると主張する意見もあります。アルコール、いわゆるお酒と生活との関わりとは、身体的、科学的な影響だけでなく、人間づきあいやストレス解消法など各個人の精神的な面にも深く作用してくるため、一概に"飲み方を気をつければ健康に良い"とは言えません。しかし、確かなことは、飲酒によってアルコール中毒患者や健康被害を被っている人々が日本にはごまんといるということです。それらの悪い面に目を傾ければ、お酒も禁止した方が日本のためなのではないでしょうか。また、タバコについては、私が申し上げるわけでもなく、"吸い方に気をつければタバコは健康に良い"と主張する人はいません。日本国民が万歳三唱して、"タバコは百害あって一利なし"と言います。そんなタバコはいまだに合法ですが。このように述べると、愛煙家や酒飲みは「大麻じゃないんだからいいじゃん。そんなにお酒もタバコも禁止しようなんて堅苦しいこと言ってたら人間やっていけないよ」というかもしれません。そうかもしれませんね。僕もそれについては同意します。何もかも禁止していたら、堅苦しくなって生きづらい世の中になってしまいます。ただし、その考えは大麻賛成派の主張とまったく同じです。彼らも、「覚せい剤じゃないんだからいいじゃん。そんなにお酒も大麻も禁止しようなんて堅苦しいこと言ってたら人間やっていけないよ。あ、でもタバコは身体に悪いよ。大麻にしときな」というのが大麻賛成派の主張です。要するに、合法な環境において、酒飲みも大麻吸いも大差ないということです。(全員がただしタバコはダメだと合意しているところがまた面白い)

大麻の人体への影響

大麻賛成派の多くは、人体への悪影響を否定します。「"科学的にデータによれば"大麻はよっぽどタバコよりも健康に良い。」と主張します。また、タバコのニコチンのように依存性がないから安全だとも主張します。正直なところ、私は専門家ではないので、わかりません。むしろ、そこらの化学のかの字も知らないようなブロガーが平然と”科学的データ”によれば、とネットに情報をばら撒くことに疑問を感じます。しかし、合法化をしている国の大衆の合意としては、「大麻は人体への身体的依存性はない」ようです。しかし、日本の厚生労働省のホームページによれば、"大麻については、「身体への悪影響がない」「依存性がない」などの誤った情報が流れています。しかし、実際には脳に作用し、様々な不具合を引き起こす違法な薬物です"とあり、真っ向否定です。しかしながら、まったく情報のソースはありません。単純に意見を述べているにすぎません。日本は大麻が違法薬物であるため、大麻の研究もあまりされていないのが原因のようです。(じゃあ何を根拠に脳に影響あるって言ってるんだ?というツッコミはぜひ厚生労働省へ。)また、厚生労働省お酒タバコ健康被害についてはものすごく詳しく書いています。ちなみに、WHOは大麻を"1961年に定められた最も制限されるべきドラッグリスト"から、排除しました。 補足情報として、日本の大麻取締法の施行は1948年です。このように情報を整理してみると、お酒、タバコ、大麻、も大した違いはなく、人間の嗜好品として嗜まれてきて、日本ではたまたま法律で分類したため、お酒とタバコは良い、そして大麻はダメであると分けられたように思えます。科学研究は日々進歩しているのに、法律は70年以上変わらないのは、保身的な日本人の良いところであり悪いところでもあるのでしょう。

アメリカでの大麻、個人体験談

私はカリフォルニア州に住んでいるため、友人は普通に大麻をやります。日本でタバコ臭い人と道端ですれ違うのと同じで、道端で大麻臭い人とよくすれ違います。大学の教室に大麻臭いやつもいます。ホームパーティーなどでは多くの人が普通に大麻をやっています。見た目は特に変わりません。ラリって目が言っちゃってるとか、お酒を飲んでベロベロになっている人のようにはなっていません。外見にはあまり変化はありません。ただ、本人たちは感覚が鋭敏になって集中力が増しているらしいです。数学のテストの時に、集中するためといって大麻を朝に吸ってくる友人もいました。日本人が、テスト期間にモンスターやレッドブルなどのエナジードリンクを飲んでいるのと変わらないなと思いました。重ねていっておきますが、僕はやったことはありません。しかし、中には日本人の留学生で、アメリカで大麻をやりまくっている人もいるのが実情です。それぐらい普通に手に入ります。正直に言って、日本にいた時よりも大麻を吸う人に対する偏見はなくなりました。別に彼らは"シャブ中"ではないと思います。また、確かに以上に大麻に依存している人もあまり見かけません。日本にいる友人で、パチンカスとか、ヤニカスとか、嫌なことがあるたびに酒を飲んで荒れる友人をたくさん見てきたので、なんなら確かにそっちの方が重症だなとも思います。しかし、あえてしつこく私の個人的な意見を言えば、「どいつも変わらない」です。僕は別にどれもやりません。

酒とタバコは良い、大麻はダメは思想統制

次は、ではどうして、日本人に「タバコと酒はおっけー、でも大麻はダメ」 という思想があるかと言えば、それは一重に、"法律でそう定まったから"だと思います。1950年までは日本では薬局で覚せい剤が売られていました。 そのことは誰もがおっけーだと思っていたでしょう。しかし、今の基準で考えればちゃんちゃらおかしいですよね。もしかしたら、100年後には、「昔の日本人はアルコール摂取してたんだよ。バカだよね」と言っているかもしれません。あくまで、法律でそう定めたことが発端だと思います。そして、合法になることによって、お酒販売業者が生まれます。彼らは必死に、お酒がいかに素晴らしいものであるかをアピールしなくてはなりません。お酒のイメージアップを図らなければなりません。お酒メーカー、酒屋、バー、などの人々によって、「酒は百薬の長」とは耳障りの良い、そして都合の良い言葉であったでしょう。そういった思想が広まるのは、資本主義国家において、自然現象だと思います。もし、お酒が1948年に禁止されていて、大麻が合法であったなら、日本は今頃はアメリカを「お酒を合法化しているやばい国」と揶揄していたかもしれません。ちなみに、「それは、逆説的にも言えることではないのか?つまり、アメリカが大麻を正当化するのは合法だからだ」という意見は少し的外れです。なぜならば、アメリカではもともと大麻が違法であったが、大麻の有用性を主張する人々の声が多かったため、合法化されたからです。因果関係が、アメリカと日本、アルコールと大麻では逆です。またこの件に対して、「いやいや、アメリカでは違法で大麻吸うやつが多すぎて、取り締まりきれないから合法化したんだろ。アメリカの警察がポンコツなだけ」という意見がありますが、これはいいポイントだと思います。実際、それも大きな要因です。

悪法も法なりとはソクラテス

ここまで、まとめると「だから、田口淳之介大麻を吸ったのは悪いことではない!」と言っているように聞こえるかもしれませんが、そうは思いません。以上のように、大麻賛成派の意見を並べてみると、大麻を吸う行為はあまり非常識な行為でもないように思われますが、一番の問題点はそれが法律で禁じられていることです。科学的な効果がどうであれ、実情被害がどうであれ、お酒とタバコとの関わりがどうであれ、統治国家に置いて、法律を破ってよいわけがありません。もしその法律が、時代にそぐわないものであったとしても、非合理なものであったとしても、結局は犯罪なのです。もしも、大麻がお酒とタバコと同じように認められるべきだと、科学的な証明ができたとて、日本ではできないのです。なぜならば、それが法律だから。だから、もし、大麻を本当に嗜みたいのであれば、法改正を訴えるべきなのです。そして、大麻について正しい知識を広めるべきなのです。それをやらずに、法を破って大麻を吸う行為はやはり犯罪なのです。しかしながら、大麻が、日本人的感覚で、コカインや覚せい剤と同列に定義されることは、世界的標準で言えば少しずれた感覚であるということもわかってもらえたと思います。また、重ね重ねになりますが、僕は、タバコも大麻も吸ったことがなく、これらの意見は自己擁護ではないということだけは強く強く強調しておきます。

情報中毒患者のあなたへ処方箋

はじめに

Infoxication:インフォキシケーション という言葉をご存知だろうか。 これは情報と中毒の複合語で、情報中毒という意味である。私は過度の情報中毒であることを実感した。情報中毒患者は、ひとつのことに集中することができない。しかし、この文章は私も含めた、情報中毒患者である人々へ向けて書かれた。ぜひ、心当たりのある方は、SNSの通知に惑わされず、少しの忍耐力を持って、この文章を読みきってほしい。

最近の私

まず、直近の私の話をしよう。私はアメリカに留学中の大学生で、現在2週間ほどの短い春休みの真っ最中だ。春休み前に遅れを取っていた授業の復習をして、春休み明けには余裕を持って授業に挑みたいと思っていた。私は、休みのスケジュールを、友人と遊ぶ日やスポーツをする日を除き、家で1日勉強することに決めた。そして、私がその「1日勉強する。」と言いながら実際に行ったことを紹介しよう。これは私の恥部でしかない。本当にクズだなと嘲笑って欲しい。

私がまず初めにしたことは、パズドラである。ずっとやめていたパズドラだが、久しぶりに友人との会話のタネに再開したらハマってしまった。目覚めたのは朝の10時ほどだったが、朝に目覚めて、第一にスマホを手に取り、ベッドの中でパズドラを始めた。パズドラをしながら、ちょくちょく、ツイッターを覗いたり、メールをチェックしたりした。また、パズドラだけでは味気なく思い、パソコンを開き、Youtubeで実況動画を流しながら再びパズドラをやった。そんな風に時間を潰し、気づけばもうお昼だった。「やばい、勉強するんだった」と思いつつも、とりあえずご飯を食べようと思い、台所へと向かった。もちろん、スマホを片手にYoutubeを見ながらである。あり合わせのご飯をつくり、パソコンの前に戻った。そして、パソコンでYoutubeを流しながら、右手にお箸でご飯を食べながら、左手でパズドラをプレイした。僕の脳が今、受け付けている情報は、膨大なものである。目で見るYoutubeからの情報、そして舌からの情報、さらには両手を操作する感覚からくる情報。僕は何一つとして集中していない。意識が散漫として、頭がぼーっとしてくる。小学生の頃、厳しかった塾の先生が「テレビを観ながらご飯を食べてはいけません」と言っていた。あれは正しかったのかもしれない。気づいた時には、その日はスマホをいじって夕方になっていた。流石にやばいと思って、数学の教科書を開いた。しかし、無音の空間が寂しく思い、耐えきれず、音楽をかけた。J-popが部屋に響き渡る。頭の中では、パズドラのスタミナがそろそろ回復するかもしれない、LINEがきているかもしれない。Twitterで友人がつぶやいているかもしれない、メールがそろそろくるかもしれない、Youtubeに新しい動画が投稿されているかもしれない、そういった情報が渦巻いている。そんな頭で、まともに勉強は捗らなかった。

勉強だから集中できないということではない

これは勉強中だからというわけではない。何をやっていてもそうだ。Youtubeで面白そうな動画を再生しながらも、同時に、もっと面白い動画はないかとサーチを同時にやっている。ブログやツイッターなども、自分の興味のありそうな部分以外は読み飛ばしすっ飛ばし、一つのものをじっくり読み込むことや考察することはしていない。完全に情報の多さにラリってる状態なのである。近年のゲームはどんどんと楽になっている。その理由は簡単である。情報中毒の若者は、じっくりと考えなければならないゲームはクリアできないからだ。少し難しければ、ぐぐって答えを見つける。自分で考えたり、試行錯誤することができないのだ。情報中毒とは、言い換えれば楽に「答え」を求め続けているのだ。私が友人に本を読むことを勧めたところ、「それがなんの役にたつの?」と言われた。ネットでググって答えを見つけることに親しんだ人は、即効性のある知識を求めるので、「数学や歴史の勉強をしてなんの役にたつの?」という小学生のような疑問を抱く。しきりに、「それがなに?」と聞くのだ。彼らが唯一興味をもつ本は、「誰でもラクラク!」とか「〜するだけで簡単に」という耳障りの良い詐欺商品のような文言のついた本だけだ。

情報中毒とは、一見すると、良いもののように思える。新たな知識を得ることは素晴らしいことだ。しかしながら、情報中毒の人の集める情報は役に立たないものばかりだ。「情報が知りたくて仕方がないから、量子力学の本を読破してしまう。」などということは起こらない。人間には、「知っていることをより知りたい」という欲求があるらしい。つまりは、パズドラとかSNSとか、とりとめもない、来週や来月にはどうでも良いと思っているような個人的な物事に意識を傾けてしまうのだ。さらには、見落としがちな考えであるが、そういったSNSに溢れかえる情報量は膨大である。一人の人間にはとても処理しきれる量ではないのだ。そこで、私はある考えが浮かんだ。

コンピュータの比喩

私の専門分野であるコンピューターサイエンスの分野で、ムーアの法則という言葉がある。これは、端的に言えば、コンピューターの性能は指数関数的に飛躍する。という意味である。かつて、現在のスーパーコンピュータのように何メートルもある巨大なコンピュータが、現在のスマホでなら一瞬でできるような計算を1日かけて計算していた。経済学者や数学者たちは、各々の処理したい計算(情報)を、コンピュータの前に順番に並んで待っていたものである。そんな姿を思い浮かべて欲しい。そんな時代もあったのだ。人間の脳みそは、コンピューターに似ている。何かを情報を一定の時間で噛み砕くのだ。それには時間が要する。コンピューターは指数関数的に性能を飛躍させた。そのため、誰もがコンピュータにアクセスできるようになった。数学者や経済学者など、限られた賢人だけが並んでいたその列に、意識高い系大学生や、主婦、バカなYoutuber、中学生、誰でも並べるようになった。そして、彼らの処理した情報は、新たに”発信される情報”として、社会に散らばっていくこととなった。情報化社会である。情報化社会以前、世間に広がる情報は、賢人たちによる推敲を重ねた価値ある情報だった。だから、「本を読む」ということは人類の叡智に触れる価値ある生産的な行為だった。また、そこには“すぐ役に立つ安い知識“は存在しなかった。しかし、情報化社会は、その情報の価値、意図、真偽、それら全てを無視して、”話題性”が最も優先されるものとして拡散された。賢人たちの知識は情報の海の底に埋没し、人の目を引くような奇妙奇天烈なもの、すぐ役に立ちすぐ役に立たなくなる陳腐なものが社会を席巻した。その筆頭がYoutuberである。僕は常々、Youtuberの悪口を言って、友人に「僻みかよ」と揶揄されるが、根本はこれによって堕落した自分への個人的な恨みである。Youtubeで溢れかえる、目を引くようなとりあえず再生してみたくなるような”キャッチーで陳腐なアイコン”に踊らされたことは誰でも一度はあると思う。むしろ、若者たちはそれに毎日踊らされている。いや、むしろ、発信者たちも情報化社会に飲まれた被害者なのかもしれない。

もう一度、さきほどの例を思い浮かべて欲しい。昔のオンボロコンピュータの前に並ぶ、賢人たちの姿を。それを私たちの脳に置き換えて考えてみよう。コンピュータは飛躍的に性能を向上した。しかし、人間の脳みその性能は情報化社会の前も現在も不変である。溢れかえる陳腐な情報たちが、その従来のコンピュータの前で所狭しと並んでいるのだ。それが、僕が先ほど書いた”SNSパズドラが気になり集中できない”状態である。私たちが処理できる情報量は限られているのに、送られてくる情報は日々、多様化、個人化し、量を増してきている。私たちの脳というコンピュータの列には、貴重な入力されるべき情報は端に追いやられ、Twitter、インスタ、ソシャゲ、Youtuberなどの陳腐な情報たちが我が物顔で列に並んでいるのだ。それらの情報は留まるところを知らず、無限の列をなしている。生産的な、価値ある情報の入り込む余地がない。言い換えれば、集中力、感受性の欠如である。

かつての、友人や恋人、家族からの紙の手紙が届き、それに一喜一憂して、時間をかけて自分の頭で考えて返信を書いた時代から、

一瞬でどんなメッセージでも送りつけられる時代になり、メッセージが届いても鬱陶しいと思ったり、何も考えないで返信をしてしまう時代へと移行した。

対抗手段

そんな時代に、人間性を失わずに生きていくには、私たちは情報の取捨選択をしなければならないと僕は思う。このままでは、流れ来る、「どうでもよい陳腐な情報」に脳の処理を持っていかれ、私たちは何かに思いを馳せることも、自分の意見をもつこともできない。さて、ここで、では情報中毒の直し方はなんだろうとググって答えを探すようでは、パラドックスである。もちろん、他者の意見を仰ぐことは重要だが、人の考え方は千差万別であるので、答えを誰かに求めるのではなく、試行錯誤して自分なりに答えを探すという過程がもっとも大切である。最後に、具体的に、どんなことを僕が今後実行していきたいかを記して、今日のブログを締めくくろうと思う。しかし、なんどもいうように以下のは答えではなく、一例にすぎないと思う。

  1. 耳栓をする。本を読む時や、勉強する時、なるだけ情報量を少なくしたい。音楽やラジオはご法度。
  2. SNSを減らす。SNSが諸悪の根源のような書き方をしてしまったが、SNSが現在の友人関係の大きなツールの一つであることは僕もわかっているので、一つにしぼって消してみてはどうか。
  3. 文章を書く。文章を書くという行為は、集中力を要するし、受動的ではなく、能動的な行為で、頭がすっきりするのでぜひ試して欲しい。日記でも良いし、僕に感想を送りつけてくれると泣いて喜びます。
  4. マルチタスクをやめる。ながら作業をできるだけ無くそう。食事のときは食事、勉強の時は勉強、音楽を聞くときは音楽。一つのことに集中。
  5. デジタルデトックススマホの電源を切って、解放される時間を設けよう。

以上が僕の情報中毒にラリった頭で考えられることである。また、同じように情報中毒に苦しみ、そこから抜け出したいという同士はぜひ、声をかけてほしいと思う。どのように解決できると思うか、ぜひあなたなりの考えを伝えてほしい。辛抱強く最後まで読んでくれたあなたはすでに一歩、情報中毒から抜け出していると思う。最後まで読んでくれてありがとうございました。

高学歴は高慢チキ

はじめに

スマブラでネット対戦で負けまくってイライラの ねおらる です。

今日は、社会奉仕の精神と学歴コンプについてお話していこうと思います。

みなさん、大学はどこですか? 旧帝大ですか?早慶ですか?MARCH?それとも関関同立

国民の大半がこれらの大学を出てはいないので、多くの人にとってこの質問はあまり気持ちの良いものではないと思います。

「すでに某大学を卒業し某会社に就職した友人が、社内のグループディスカッションで高卒の同期の社員と話すことになった際、高卒の社員さんたちが自分をへりくだってまったく意見をいってくれなくて困った。」と言っていました。

彼女が「高卒」という肩書きを色眼鏡でみていたのかどうかはわかりません。

また、世間一般で「高学歴」と呼ばれる大学へ進学した友人は、「高卒やら無名大学に進むやつは人生諦めてるみたいで見下してしまう」といっていました。

また、知り合いの中小企業の社長は「高卒だろうが大卒だろうが、仕事ができるやつはできるし、できないやつはできない。」と言っていました。

ノーブレスオブリージュという言葉があります。

「高貴さは義務を強制する」という意味です。

言い換えれば、「エリートはそれに伴う社会奉仕の義務を追う。」というものです。

アメリカは、日本以上の学歴社会です。

日本では、大学のネームバリューを重要視し、学部学科が軽視されがちです。

日本の友人も、卒業した学部と関連のない分野に付け焼き刃てきに資格を取得して就職するという話をききました。

経済学用語でunderemployedという言葉があります。まさにその状況ですね。

アメリカでは、通常、大学名と学部学科を満たさないと有名企業には就職できません。

そのため、アメリカでは裕福な家庭の両親はこぞって、子供たちを有名大学へ進学させます。

難関大学を入学、卒業できるように彼らの多くはボーディングスクールと呼ばれる高校へ行きます。

学費もバカにならない、高校ですが、それだけの価値があるようです。

東大の名も霞むようなハーバードやコロンビア大学、イェール大学などの超難関大学の多くがボーディングスクール出身です。

言い換えれば、日本のように裕福ではなく、中学高校も有名な進学校ではなくても、個人の頑張りによっては国立大に進めるといった敷居の広いものではありません。

生まれたってのエリートがエリート教育をされて、自分が社会に担う責任をみっちりと叩き込まれて育つようです。

そうでなければ、マークザッカーバーグビルゲイツのように資産の多くを社会に還元する寛大さを得ることはできないのかもしれません。

個人ではエリートは生まれません。

運良く社会の恩恵を受けて、エリートは生まれます。だから彼らは恵まれない人々に手を差し伸べ、差別や侮蔑といった感情とは無縁なのかもしれません。

私、個人の見解では、日本のエリートたちの共通思想はノーブレスオブリージュとは正反対のように思われます。

日本人は福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らずと云えり。<中略> 人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぷと学ばざるとによって出来るものなり。」という精神を抱いている人が多いのではないでしょうか。

平たく言えば、「人は元は平等で、努力した分だけ報われる」ということです。

しかし、これを悪いように解釈している人が多いのではないでしょうか。つまりは、日本のエリートは社会的地位の低い人に対して、「努力した分だけ報われる世の中なのだから、社会で俺が優遇されてお前が冷遇されるのはお前の怠慢と俺の努力によって生まれたものだ。だからお前が悪い。」ということです。

日本人は社会貢献に無頓着な人が多いように思われます。言い換えれば、愛国心や慈愛の心が低いように思われます。

先日、アメリカの大学で英文学を受講している際、教授が「人生の99%はどこにいつ生まれ落ちるかという運によって決まる。残りの1%だけが私たちの変えられる要素だ」と言っていました。

「働かざるもの食うべからず」という日本と、「ホームレスがかわいそうだと言って食べ物やお金を恵むことが一般的なアメリカ。」どちらの心が豊かなのでしょうか。

「日本は、安全で清潔で、誰もが"頑張れば"報われる社会である」と誰もが信じ込んでいるため、強者は弱者に厳しい傾向があります。

「あなたは今まで国家に生まれて教育されてきたのに自分が国家の家来ではないと国家にむかって言えるのか」とはソクラテスの言葉です。

私たちが今、受けている恩恵の99%以上が、支えてくれる友人、世界中の社会で働く全ての人々、恩師、両親、祖父祖母、今の日本を築いてきた祖先たち、そして社会に与えてもらったことだということを忘れたくないものです。傲慢にならず、謙虚に、生きていきたいですね。

学生時代にやっておくべきだったことは一つだけ。

はじめに

こんにちは。最近、卵かけご飯ばっかり食べている ねおらる です。僕は日本の大学を中退して、アメリカの大学へ入り直すという究極のモラトリアムをしても親が負担してくれるボンボンの甘ちゃんです。誰が見たって、贅沢だと言われることをやっています。よく、そのことを話したら「すごいね!(親の懐とあなたの面の皮の厚さが!)」とあまり仲の良く無い友達に賞賛されました。

しかし、どうせ得たこの機会、無駄にせずに最大限に有効活用しなくちゃ!と思いました。 そこで、「学生にうちにやっておけばよかった」ことって本当はなんなんだろうかって考えてみました。

ググってみた結果①

この情報社会を生きる僕ら、まずは自分で調べてみろ(ググレカス)と言われてしまっては情けないので検索をかけてみることに。大きく分けて2種類の記事が出てきました。まず一番上に出てきたのは、アルバイト仲介業者によるサイトでした。ざっくりようやくすれば、そこには以下のようなことが書かれていました。

  • 勉強

  • サークル、部活動

  • 読書、映画

  • バイト、インターン

  • 語学学習

  • 資格、免許

  • ボランティア

  • 恋愛

  • 留学

そして、最後には「やるべきことに挑戦しよう」という自己啓発的なメッセージとともに、「というわけでバイトを探してみよう!」と巧みに自社からバイトを見つけるように誘導していました。つまるところ、バイト仲介業者がターゲットにしやすい大学生の心を上手くキャッチして顧客である企業のアルバイトへ送りつけてやろうという意思が垣間見れて、利益の絡んだ記事であり、偏りのある意見のように思えました。他にも、Tech系のサイトでも同じようなリストを列挙して、最後には「1位、ITスキルの取得」と誘導して某サイトのワークショップへと誘導していました。このように、一つ目は「一つの訴えかけたい意図」があり、それを主張するために「大学生のやるべきこと」という媒介を利用しているというパターン。

ググってみた結果②

二つ目に出てきたのは「ブロガー」の意見。個人ブログを併設している人が書いているもので、内容は1種類目とは大筋は同じことを書いている。しかし、相違点としては「アルバイトをするな、ブログをかけ。」というメッセージ。彼らの多くは、アフィリエイトやブログの広告収入などでお金を稼いでいる人たちで、そのスキルが貴重なものであると主張をしている。こちらは、「自分の取った行為は正しい。それが社会人になった今も生きている。」という自己肯定意識の見える内容が多かった。しかし、僕個人の意見としては「自分のしたことは正しかったからお前らも同じことをしろ」と積極的に勧めてくる人間にロクな人間はいない。何故ならば、その本人たちのした行為が正しいもので尊敬に値するものであったなら、彼らの方から勧めてこずとも自然と周りが尋ねてくるものだからだ。

ググってみた結果からの考察

ググってみて、最初に出てくるものの多くは、とてもみやすくシンプルにリスト化して完結に「これとこれとあれをしろ」というメッセージが書かれていた。しかし、これらの情報は果たして正しいのだろうか。全国に280万人以上といる大学生が、揃いも揃って「バイト、留学、ボランティア、etc.」がやるべきことなのだろうか。この「学生のうちにやっておけばよかったこと」というメッセージを受け取る上で、発信者のバックグラウンド、そして意図を汲み取るということはすごく大切なことだ。意図については、前項でもすでに述べた通り、「誘導」「自己正当化」があげられた。もうひとつの重要なアスペクトは「誰」がそのことを書いているのかである。「学生時代にやっておけばよかったこと」とは、通常、学生を卒業した社会人によるものだ。しかし、社会人にも様々な年代がある。ブロガーの多くは、20代や30代が多い。言い換えれば、彼らが40才50才になったときには「やはり、そんなことに時間を避くべきではなかった」と意見を変える可能性は多いにある。学生という要素を使って、人生を分断してみたときに、学生時代である20才前半までと、20才前半から死ぬまでの二つに人生は別れる。当たり前ながら、人生とは学生時代よりも社会人の方が長い。大学生が参考にすべき意見は、20代30代の先輩社会人の意見なのだろうか、それとも40代50代の両親の世代、はたまた祖父祖母の世代からなのだろうか。

友人や家族に尋ねてみた結果

さて、次に僕はすでに就職した近しい友人や家族にそのことを尋ねてみた。彼らは

  • 勉強
  • バーテンダーになる
  • 世界一周
  • 海外旅行
  • 友達とゲーム
  • 美術館、博物館
  • 寄席、歌舞伎
  • スポーツ観戦
  • 読書

などと教えてくれた。 その中でも、一つ胸に刺さった言葉があるので紹介したい。 「まとまった時間が取れないから、まとまった時間が必要なことはしとくべきだったな。まあ、社会人になってからでも、まとまった時間がゼロになるわけではないからなぁ。個人のやる気とか次第かもな。」 というものだ。この発言には、今回の議題の真理がつまっているように思えてならない。

本当にやるべき事。

僕は「勉強をしておけばよかった」という意見には真っ向から反対したい。それはどういうわけかといえば「昔に勉強しておけばよかった」と今の自分の力量不足について過去の自分を責めている考え方が気に食わない。そう思うなら今からやればいいではないかと思う。いつだって遅すぎることは無いと僕は思う。多くの大人は、言い訳をたくさん拵えて「もうできない」と諦めている。しかし、いつからでも、やる気なればできないことはない。特に「勉強」や「語学学習」に関しては、いつからでも遅すぎることはない。しかし、今の力量不足をただ後悔するばかりで「やっておけばよかった」と悲観する人は、「「今」」やる気を起こすべきだ。学生時代の「「今」」に勉強できなかったため、それを引きずり今も「昔にしておけば」と言っている。それは、参考になる意見とはいえないのでは無いだろうか。これは、上記で紹介した友人の意見の「個人のやる気次第」という言葉に凝縮されている。学生時代にやる気の無いものは、社会人になってもやる気がないのだ。しかし、学生の方が優位な点は確かにある。それも、友人の一言に詰まっている。それはひとえに「時間」である。社会人になってからでも実現可能なことは多くあるが、明らかに学生の方が時間を持て余している。しかし、その大切さを実感するのは時間に縛られる社会人になってからである。つまり、一言でいうならば、学生時代にやっておくべきことは「時間の大切さに気づく」ただそれだけである。その事に気づけば、自ずと自らのやるべきことが見えてくるであろう。それからのやるべきことは千差万別である。それは各個人によって異なることであり、ネットで「大学生のうちにやること」と検索をかけて出てくるものでは無い。自分の頭で考えて、自分の身体で実行しなくてはならない。何より、怪しげなサイトの文言に踊らされてはならないということを僕は強く主張したい。そのことを「学生のうちに気づいておくべきだった」と悲観するのではなく、新社会人諸君にも、いつだって残された時間は未来だけであることを忘れずにがんばってもらいたい。そんなことを、モラトリアムボンボン人間からいうことは恐れ多いことであることは重々承知の上で言わせていただきます。時は金なり。以上、ねおらるでした。

「人は二度死ぬ。だが二度目の死は避けられる」に異議申す!

はじめに

こんにちは。乾燥によって喉を痛めたのをきっかけに、アロマディフューザーを買って、お部屋がオレンジの香りになって、上機嫌の ねおらる です。

「人は二度死ぬ」というフレーズを聞いたことのありますか? これは、初めに一度目の死、すなわち肉体の死を迎え、そして生きている人々から忘れ去られたときに、二度目の死、すなわち忘却の死を迎えるというものです。

つまりは、二度目の死は回避できる。 有名なアーティストや偉人など、歴史に名前を閉ざした人々は二度目の死を未来永劫迎えないものである。というものです。

2017年冬に公開された、ピクサーのリメンバーミーでもこの概念がテーマになっていたこともあり、有名なフレーズとなりました。

誰がはじめに提唱したのか出典は不詳のようですが、意外にも近代的な概念のようです。

しかし、僕個人的な意見としては、肉体の死も、忘却の死も、避けられないものだと思います。

この概念をどう捉えますか?

この概念を肯定的に捉えると以下のようになるのではないでしょうか。

「二度目の死は回避できる。だからこそ、歴史に名前を刻もう。ビッグネームになって、名前を残すんだ!」

しかし、周知の通り、歴史に名前を刻む、名前を後世まで残すことのできる人はごくわずかです。

ごくわずかな、選ばれた、才能ある人間たちは歴史に名前を残して、忘却の死を免れ、そして、多くの人々は忘れ去られていく。

なんだか物悲しく、世間は不平等なもののような気がしてきます。

このように捉えると、自分も躍起になって名前を残さなくてはいけないと強いられているような印象を受けます。

いや、僕は思う。

いや、そもそも、二度目の死は本当に回避なんてできるのでしょうか? 人々に未来永劫忘れられないことなんてできるのでしょうか?

「そりゃ、そうだろ。豊臣秀吉が天下統一したことや、アインシュタイン相対性理論を提唱したことは未来永劫忘れられないよ。」

確かにそうです。彼らが何かを成し遂げたことは誉れ高いことです。 しかし、本当に彼らは”忘れられていない”のでしょうか。

僕は、小学生の頃に、おばあちゃんをなくしました。

とっても、優しいおばあちゃんでした。

おばあちゃんの声を覚えています。

幼稚園児の頃に寝かせつけてもらったを覚えています。

おばあちゃんのつくったふわふわのホットケーキの味を覚えています。

それが、きっと忘れられていないってことだと思います。

僕の中で、確かにおばあちゃんは生きています。

しかし、僕は、織田信長がどんな声だったのか知りません。

どんな顔なのか、どんな笑い方をするのか、何が苦手で、何が好物なのか、どんな仕草をするのか、知りません。

歴史上の偉人だって、親に愛されて、友と笑いあって、誰かを愛したはずです。

でも、今では誰も知ることはできません。

彼らはもう死んでしまったのです。

人は必ず死ぬ。

二度目の死も避けられないものだと思います。

限られたものだから人生は楽しいのかもしれません。

顔も知らない、未来の赤の他人に、教科書で、「ねおらる、2027年、タイムマシーンつくる」なんて暗記されてもちっとも嬉しくありません。

それよりも、僕は今、友人や家族、愛する人の心の中に、生きていたいです。

限られた時間を、誰と過ごし、何をやるのか。それが一番大切だと僕は思います。

有名になるとか、歴史に名前を刻むとかって、すごくくだらないことです。

僕らに何か残せるものは、今まさに、共に生きている、友人や家族にだけだと思います。

だから、この生きた文章を読んでくれた、あなたに心から感謝します。

今日も、一緒に、楽しく生きて生きましょう。

以上、ねおらるでした!

僕が文章を書く理由

はじめに

お久しぶりです。ねおらる です。

「全然更新できなくてごめんなさい!」とか「更新が遅れてすいませんでした。」という発言を見るとイラッとしてしまうので、それは書きません。有料メルマガとか閲覧者に責任を持ったブログの更新が遅れて謝るのはまだ理解できるのですが、勝手にあげているYoutuberとかが言ってるのを見るといや誰に謝ってんだよと思ってしまいます。

話がそれてしまいました。このブログの更新頻度の低下がいかに僕の熱しやすく冷めやすい正確かということを物語っているような気がします。あれこれと風呂敷を広げ続けて、友人にはよく一つのことにもっと集中しろと注意を受けます。

先日、堀江貴文さんの著書を読んでいて、「僕はどの分野でも70点取ったら、次に進みたくなる。」とかいてあり、共感を受けてしまいました。(Kindle Unlimitedで無料で読めたから読んだだけで、別にホリエモン信望者でもメルマガ登録者でもありません。)中身の薄っぺらい人間にならないように、何か一つに絞って頑張りたいものですね。

さて、今回は他に書きたい記事もあるのですが、そちらは文章量が多くなり、最近忙しいこともあるので、別のことを書いて見ます。

僕が文章を書く理由

なぜ、人は文章を書くのでしょうか。 備忘録、プロパガンダ、自己顕示欲、趣味と様々ありそうです。

以前、大学の英語の講義で、Linguistic(言語学)の教授がどうしてこの専攻を選んだかについて語っていました。 彼女は

「言語というのは面白い。口から発せられた音波が人を笑わせたり、悲しませたり、怒らせたりする。それは暴力などの物理的な力ではない。でも、それ以上にパワフルなものだ。そのミステリアスな力をもっと知りたいと思った。」

といっていました。 言い換えるならば、「ペンは剣よりも強し。」のようなことかもしれませんね。

また、芸人のバカリズムさんがこういっていました。

「人間は変態だ!文字を読んで感動したり笑ったりしている。」

確かに人間はみな、変態かもしれません。

言葉っておもしろいですね。

人を喜ばせたり、勇気を与えたりする方法はたくさんあります。 ハグをしたり、料理をつくったり、歌を歌ったり、何かを買ってあげたりと。 でも、言葉っていうのは特別不思議なものかもしれませんね。 誰もが、指先一つで、人の気持ちを動かす可能性を秘めています。 僕も、そんなことをしたくて、今は文章を書いています。

今の僕の文章を書く目的は、人を励ますことです。 僕の文章を読んだ人が、「よし、明日も頑張ろう」と思える文章を書きたいと思っています。 日々精進して、皆さんの背中を押せるような文章を書けるようになりますので、これからもよろしくお願いします。

更新が遅れてすいませんでした。

Allegory of the cave

はじめに

f:id:neolalu:20180903091455j:plain (葛西臨海公園で撮った黄色いコスモス。以下の文章とはとはまったく関係なし。)

お久しぶりです。ねおらるです。まったく更新していなくて、何か書こうと思ってつらつら書き出してまとめた文章なので、まとまりがないかもしれませんがあしからず。

 

日本の友人たちとの再開

日本に一ヶ月帰省して、様々な人間ドラマが僕にはありました。それは、綺麗なものもあれば汚いものもありました。それらの出来事は良くも悪くも僕の心境を変えました。

変わらず接してくれる地元の友達の暖かさ

またここでくだらない話をくっちゃべられるように、頑張ろうと思わせてくれました。 僕の地元の友達はハイスペック野郎共ばかりで、なんだか自分が才能のカケラもなく、コツコツと実力をつける堅実性もない、ポンコツに思える時もあります。しかし、同時に、彼らのようになりたいという自分の向上心を刺激してくれる存在でもあります。しかし、彼らは、僕のバックグラウンドに影響されず関わってくれるよき友達です。

自分に会いたいと言ってくれる、自分を認めてくれる友達。

どういうわけかわからないけれど、こんな僕を評価してくれる友達も何人かいます。彼らは「お前は将来、絶対に大成する」と言ってくれます。根拠もなく、僕を信じてくれる彼らのためにも僕は頑張りたいと日々背中をおされる思いです。

実力主義で、これといった尖った武器のない僕を見下している友達。

正直言って、彼らとの会話はあまり楽しいものではありません。彼らはよく、ぼくに「君は小難しい言葉を使って、相手を煙に巻こうとする節がある。賢く見られたいという意思が透けて見える。」といったことを言います。めちゃくちゃ傷つきますが、そういった自分の側面はわからなくありません。自分を戒めてくれるいなくてはならない友人達だと思っています。

小学生のクラブ時代のチームメイト。

アイスホッケーという非常にお金のかかるスポーツを子供にやらせることができる親の経済力を受けてか、仲の良いチームメイトの多くはエリートコースを歩んでいます。

考えたこと

彼らは僕の視点で見れば、みな違った生き方をしています。違った環境で、違った価値観を育み、ある人たちからすれば「くだらない」と一蹴されることに懸命になっています。

僕がアメリカ留学をしたい、日本の外で生活してみたいと思った一番の理由は視野の拡大でした。 世の中には周りの見えていない人がたくさんいます。

身近なアルバイトで例をあげてみます。 ある日、8人ぐらいのメンバーで飲み会をしているとき、会の終わり側に僕は店員さんに「お水を全員分お願いします。」といいました。店員さんは快く引き受けてくれましたが、飲み屋でバイトをしている友人に強く咎められました。「どうせ、全然飲まないくせに全員分のおみずを一応頼むみたいなのは大変だしムカつくからやめろ」といわれました。 たしかに僕には飲み屋の店員さんの大変さがわかっていなかったのかもしれません。

お店のマナーを守らず、店員さんに横暴な態度を取る人がいます。彼らは店員の気持ちがわからないのかもしれません。

僕がアプリ開発のバイトをしていたといったら、このアプリのバグを直してくれとスマホを手渡されたことがあります。「スマホを手渡されてもソースコードにアクセスできるわけではない」という説明は理解できないので、ただ「それはできない」というと、「融通がきかないなあ」といわれました。

趣味の話でもそうでしょう。 近年、e-sportsが話題ですが、「そんなものは競技でもなんでもない。スポーツとゲームを一緒にするな」と激怒するひとがいます。

もっと国際的な話をすれば、

まだまだ日本人はLGBTへの理解が遅れています。

日本人の友人に「やっぱり◯◯人は…」といったレイシズム的発言を平気でいう人もいます。

別段、深く話したこともないのに「ヨーロッパ人はアジアンを見下している」と被害妄想を膨らませる人もいます。

自分の視点を平気でおしつけるひとは多いです。

そんな人を見るたびに、視野が狭いなあと思うのです。

そして、場面によっては僕もその一人だと思います。

狭い思考回路の世界で生きていくのも人の選択であり、自由です。

ただ、僕はその事への漠然とした恐怖があるのです。

プラトンの「国家」の中に、洞窟の比喩というものがあります。 (意味は以下の動画参照。英語だけど短くて簡単な動画だから是非見て欲しい) https://youtu.be/1RWOpQXTltA

この動画自体がソースの概要で、それを僕がさらに要約すると正確性が損なわれるので、僕の解釈だけを述べれば、パラダイムシフトの起こった人、またはHigher consciousness(直訳すれば「意識高い」だけれど日本語では意味合いが違うので英語で表現しています)を得た人と、そうでない人との確執問題だと思います。

僕は現在、23歳です。

僕らの世代は今、人生の大きな変化の渦中にいます。

友人たちは、就職して働きはじめています。その態度は様々です。過酷な環境で勤めて日々ストレスを溜め込んでいる人、あまり学生時代から変化のない人、むしろ学生時代よりも自由がでてきて人生を楽しみ始めた人。

来年の春から就職する学生たちは、最後の学生生活を惜しみのないようにと奮闘しています。

僕らは否が応でも、将来設計を考えさせられる年齢となりました。 与えられた課題をなんとかこなして、とりあえずテストを乗り切れば他者に評価されていた制度から抜け出そうとしています。

考え方から柔軟性が消え始めるのは我々の年齢からのような気がします。

新たな考え方、自分とは違う考え方の人を受け入れられなくなっていく年齢だと思います。

否が応でもそうなっていくのでしょう。どの世代も、上を老害と罵り、下を「これだから最近の…」と否定するのでしょう。

僕らの視野は確定しつつあります。

就職するかもしれません。 社会人になるかもしれません。 しかし、できうる事ならば今のうちに広い視野を持ち、30代、40代になったときに柔軟に人生を楽しめる人になりたいものです。