気持ちを書くブログ

写真撮影、コンピュータが好きです。あと本とゲーム。落語も好き。おしゃべりも好き。

病気にしたがる人たち

こんにちは。先日、友人に「お前、人間関係リセット症候群だよ」と言われました、ねおらるです。その友人は自分もASDの気質があると自己分析をしていました。最近、そういう人増えましたよね、何かにつけてASDだのADHDだの躁鬱だのHSPだのと。これらのいわゆる発達障害の症状をあげて、すぐに自分はこうかもああかも普通じゃないかもと言いたがる人が周りにもいませんか?そういう人たちのことを皮肉って、「発達障害かもしれない症候群」と呼ぶこともあるそうです。なんだか、小学生のバカっていう方がバカ理論を思い出します。僕は確かにSNSを消すことが多々あります。しかし、イコールリセットしているわけでもなく、普通にその後も友人とはやり取りします。僕にとっては、SNSのフォローとかフォロワーであるとかっていう形式は大した問題ではないんですが、そういう人を過剰に気にする人もいるようです。コロナでもすぐにPCRで陽性だから感染者だーとか、とにかく誰かを病気扱いすることが昨今増えましたよね。どう考えるかは個人の自由だと思いますが、僕はそういう考えは個人的には好きではないです。発達障害なんて存在しないとかいうつもりはありませんが、発達障害の症状は少なからず誰にでも当てはまることです。それを言い訳に自己改善を怠るのもよくないと思いますし、他人を障害者だと決めつけるのもよくないですよね。本当に切羽詰まった人のための逃げ道として「障害」という言葉は使われるべきで、まるで最近はやりのパーソナリティ診断のように気軽に誰が何の障害だと簡単に口にするべきではないと思います。落ち込んだり、喜んだり、元気がなくなったり、何かに面倒臭くなったり、人を傷つけたり、そんなのが当たり前の人間ですよ。日本人は「普通」の敷居が高すぎる。

事故って考えたこと

こんにちは。お久しぶりです。

昨日、事故を起こしました。結果から言えば、人が怪我したりはしていないのでそこまで大きな事故ではありません。しかし、事故は事故ですので反省しています。

その日、私は土曜日の夕方にふと思い立って、学研の昆虫図鑑を買いに行こうと思いました。子供向けの大きな昆虫図鑑です。原寸大の生きた昆虫の写真が載っている素敵な図鑑です。それを自分用と、甥っ子にプレゼントするように買おうと思い立ち、本屋さんへ向かいました。はやる気持ちを抑えきれなかったのか、私の不注意でその時に狭い駐車場に停めようとしたら隣の車に擦ってしまいました。隣の車は停車中だったので、すぐに気づいて車から降りてきて擦ってしまったみたいなので、保険屋さんと警察に連絡しますねと落ち着いて伝えてくれました。擦ったのは私なのに、感情的になったりもせずに冷静に対処してくれて本当にありがたかったです。テンパった私は、父親に電話して保険屋さんの番号を聞いたりして、なんとか保険屋さんへ連絡。父親も、冷静に電話番号などを教えてくれたけれど、話す口調からも「なにしてくれとんねん」感が伝わってきて申し訳なくなりました。言い訳になりますが、先月に急に車体の大きな車を会社から渡されたので、まだ慣れていなかったのがあるかもしれません。しかし、どちらにせよ不注意でぶつけたのは私にしか責任がありません。関係者の方には大変ご迷惑をおかけしております。不幸中の幸いでいえば、これが、このぐらいの規模の事故で済んだことです。一歩間違えれば、誰かに怪我をさせてしまっていたかもしれません。事故を起こすということは、私の運転に至らない点があるということで、すっかり運転に慣れた気でいましたが、海外に行って左ハンドル左車線を走ったりして車幅の感覚などが狂っていたのだと思います。今後はもう事故を起こして他人に迷惑をかけないように初心に帰って緊張感を持って運転したいと思います。

ただ僕が悪いだけの状況で慰めの言葉を周りがかけてくれるわけもなく、一人へこんでいたのですが、これは一緒の神様からの警告だと思って受け取ることとしました。

神様「おまえ、周りちゃんとみれてるか?距離感って大事やぞ?あんまり、ずかずか相手の懐に踏み込むと事故るぞ?」

神様「おまえ、すぐ本屋に行って新しい本買ってくるけど、家にある本をちゃんと読破したんか?積読まみれやぞ?」

神様「もっと、いま目の前にあることに集中しろ。」

そんなふうにきっと、神様は伝えたかったのだと思います。ちゃんと周りを見て生きようと思いました。すみませんでした。

権威主義の失墜は何を意味するのか

小難しいタイトルにしてみたけれど、至って話は簡単である。昔、といってもほんの数十年前までは権威には日本人の"普通"をコントロールする力があった。何かの情報や意見について述べる時に、今から並べる言い出しは"普通"の意見として認められるだけの効力があった。「新聞で読んだけど」「テレビで見たんだけど」「大学の教授がいってたけど」「本で読んだんだけど」そして、反対に「ブログでみたけど」「YouTubeでみたけど」「2chで誰かがいってたけど」という言い出しは冗談半分、または全くもって信用に足らないものとみなされた。「ネットの情報は玉石混交である。」そのように権威たちは述べていた。Web2.0が生み出すものは集合知かまたは集合愚かと盛んに20世紀末から21世紀初頭には議論された。しかし、いまや権威はその力を失いつつある。新聞やテレビがいうことならば何でもかんでも鵜呑みにするという考えの人は数を減らしていった。そして、20年ほど前までは冗談半分や信用に足らないものであったはずのネットから流入する情報は、むしろフィルターリングのかかっていない生の情報を運ぶものとして、重宝されるようになった。「個人が情報の真偽について判断する時代」の到来。それは、裏を返せば絶対的力、"賢い誰か"が正しいもの、間違ったもの、を定義してくれる時代の終焉となった。権威主義の失墜である。これはメディアだけの問題ではない。現在では、科学者や医師の意見でさえもまともに相手にされる時代ではなくなった。どれだけ権威があろうと、言い換えれば、慶應大学の教授ですと言っても、東京大学病院の医師ですと言っても、彼らの意見が市民によって鵜呑みにされることはなくなった。科学と医療は別物だ。科学に絶対は存在しない。科学に誠実な人間ならば、「マスクをつけた方が人類の生存率は絶対にあがる」とか「ワクチンには予防効果がある」と断定することはない。理由は至って単純で、現実世界という条件は再現不可能だからだ。もし、この世界がシュタインズゲートのように世界線が複数存在するものであれば、実証実験ができるかもしれない。そして、その実証実験は10年とか30年とかのスケールで行われるべきだ。言い換えれば、「ワクチンを人類全員が打って30年が経過した世界」と「ワクチンを誰も打たずに30年が経過した世界」またはその中間の「ワクチンを半分の人間がうった世界」などを比較してみなければ、複合的な条件で構成される世界への影響などわからない。いつでも科学は「今の所これで辻褄があうけど間違っているかもしれない」という精神でなくてはならない。この世の物理法則全てを説明できると長らく信じられてきたニュートン力学でさえも、アインシュタインによって修正された。科学は純粋なものでなくてはならない。しかし、政治や行政、医療は別である。そこではそのような曖昧な意見は許されない。「ワクチンを打てば、死ぬかもしれないし死なないかもしれません」「ワクチンを打てば、感染率が下がるかもしれないし、変わらないかもしれません。いまわかっている情報だけで言えば、そのような気がします。でも、全てを把握しているわけではないので実は真逆のことも起こり得ます」などとは言えない。だから、真実はわからないけれど、今わかっている情報でいえばこれが最善な気がします!という決断を医療や政治の世界では言わなくてはならない。しかし、権威主義の失墜した今は、秩序が崩壊した。科学、医療、政治の垣根はどんどんと曖昧になり、科学者や医師が政治に口を出すようになった。科学というシステムは正常な機能を失った。科学が政治利用されるようになって久しい。真実を追求するためのシステムに利権問題が絡めば、歪んだ真実が次々と生まれてくるのは当たり前のことだ。ますます権威は威厳を失っていく。むしろ、新たな存在、YouTuber、インスタグラマー、TikToker、いわゆるインフルエンサーたちの発言の方がよっぽど影響力のあるものとなった。医師や数学者が「富岳の演算によれば、マスクをつけていれば感染率が〇〇%から〇〇%になります」などというよりも、YouTuberが「ってかさ、マスクつけんのなんかさ、実際の効果うんぬんなんて知らんけど、マナーじゃね?しないやつやばくね?」と発言した方が市民は同調して従ってくれる。エンタメ界隈でも同じ現象が起きている。20年ほど前までは、ジャニーズ、エイベックス、ホリプロ、などの大手の芸能事務所にまだ権威があった。彼らこそが"芸能人"であり、ニコニコ動画から出てきた歌い手やボカロの作曲などはサブカルであって世間に浸透したものではなかった。しかし、今ではAdoを筆頭に、ボカロやニコニコなどのネット育ちのコンテンツが世間に広く認められるようになった。大手のYouTuberも下手なテレビにでるタレントよりも多くのファンを抱えることになった。VTuberでも億という金を動かす人がゴロゴロと現れはじめた。そして新たなコンテンツが生み出した新たな権威、UUUM、ホロライブ、なども浮き沈みを繰り返している。安定した権威は今や存在しない。このことに気づき始めた多くの人は、自分の意見をネットに投稿しはじめることとなった。ネットを見渡せば今や誰でもかれでも批評家気取りだ。(私も人のことを言えたものではないが。)"自分で情報の真偽を判断しなければならない時代"とは、言い換えれば"好き勝手に正義を定める時代"であり、"偏った情報をかき集める時代"だ。右向け右のできない時代に、あなたは何を信じて生きていきますか。

落ちこぼれも悪くない

受刑者の本を読んだ。別にその感想を書きたいわけではないが、内容はともかくとして、なんだか自分の生活が幸せに思えた。自分の世界が閉ざされているような、変わり映えのない灰色の毎日がずるずると続いていくような気持ちになることがある。しかし、そんな折に、受刑者の小説などを読むと、自分がいかに恵まれているかに気づいて、自分の家の芝生が青く見えたりする。そういえば、三年ほど前に付き合っていた女の子と「世界の中心で愛を叫ぶ」をみたときに、その子が「貴方が健康体でよかった」と言って泣きながらハグをしてきたのを覚えている。私は今でもピンピンと生きてはいるがその身体を同じく健康体の彼女が抱きしめることはもうないのだけれど。まあ、それはそれとして。そんなことを考えてみると、人間とはつくずく比較でしか幸せを測れないのだということに気付かされる。人が幸せを実感するときは、ギャップがある時だ。頑張って頑張って辛い時があるから、報われた時に幸せを感じるのである。例えば、何キロも走った後にルームランナーから降りた時は、とても気が楽になる。または、とてつもなくお腹が空いてから食べるご飯の方が美味しい。なんだか、例えが今日は冴えていない気もするけれど、つまりはそういうことだ。もう亡くなってしまったけれど、私の大好きな噺家、10代目柳家小三治が、「子供に勉強しろなんて言わなくていいんですよ。別にやりたくなきゃやんないでいいの。落ちるところまで落としちゃえばいいんですよ。そしたらあとはもうあがるだけの楽しみですから。」と言っていたのを思い出す。その話を始めてきいた時は、中学生か高校生ぐらいだったから、「何を馬鹿なことをいってるんだ、そんなことしたら良い高校にもいけないしそしたら良い大学にもいけないし、そんでいい会社にも入れないし」などと考えていた。視野がとても狭かったので、世間とはそういうものだと思っていた。でも、例えばそうやってエリート高校を出てエリート大学へ入り、エリート商社マンになった人が毎日幸せいっぱいかといえばそうでもないと思う。なぜなら、人は比較でしか幸せを感じられないから。変化がどれだけあっても、気付けば現状の自分が基準になってしまう。だから、もし毎日幸せの人がいるとしたら、毎日、昨日の自分よりも成長できた人だと思う。そう考えてみると、もっとも幸せを感じていられるのは、無理にハードルをあげた人よりも、スタート地点が低い人の方なのかもしれない。亀の甲より年の功というだけある。前のめりに生きていきたい。

ビー玉ひとつ

小学一年生の夏、僕はクラブ合宿でとあるペンションに泊まっていた。

小学生のクラブの合宿だから、そこまでハードな1日ではない。

昼と夕方に練習があり、それ以外は自由時間だった。

高地の山の中、自然に囲まれた場所に合宿所は立地していたので晴れていれば外でウスバカミキリでも捕まえて遊んでいた。

しかし、その日は雨で、僕たちは暇していた。

他のみんなが何をしていたのかは忘れてしまったけれど、僕はYくんと暇な時間を潰していた。

僕はポケットからビー玉を取り出して、Yくんにこれで遊ぼうともちかけた。

Yくんはいいよいいよとノリよく快諾してくれた。

Yくんは筆箱から鉛筆キャップを取り出して、机の上に立てた。

僕は指でビー玉を机に押し当てて、勢いよく発射させて的を倒した。

次はYくんの番。

Yくんも問題なくビー玉を倒した。

「簡単だね。」

「そうだね、じゃあ、これならどう?」

Y君はビー玉の発射位置とキャップの間の丁度真ん中に消しゴムを置いた。

「これで、どうやって倒すの?」

「こうしたらいいんだよ」

Y君はビー玉に親指と人差し指の二本の指を同時に押し当てて、横回転を加えながら打ち出した。

先ほどまでまっすぐに的に飛んでいったビー玉が、今度は綺麗な弧を描き消しゴムを避けて見事キャップを倒した。

「すげえ!じゃあ、これなら3点だ!!」

「いいね!ストレートが1点で、カーブが3点ね!」

「じゃあさ、じゃあさ、5回ずつ打って、総合ポイントが高い方が勝ちね!」

「そうしようそうしよう!利き手じゃない方で打って当てたら+1ってのはどう?」

「それもいいね!!三連続で当てたら+5ってのはどう?」

「いいじゃん!!」

僕たちはその後もルールをたくさんつくり、ゲームバランスを調整して楽しんだ。

クラブ活動そのものよりも、僕はYくんとビー玉で遊んだことが楽しくて仕方なかった。

大人になった今だから、それがどれだけ稀有なものかわかる。

今は”ビー玉”がたくさんある。スマブラポケモンみたいなテレビゲーム、居酒屋での飲み会、ダーツやビリヤード、ディズニーランド、etc.

ビー玉とそれらを比べたら、楽しむ難易度は格段に違うだろう。

一緒にテレビゲームをして楽しめる相手、一緒にディズニーに行って楽しめる相手はたくさんいるだろう。

しかし、一緒にビー玉ひとつで楽しめる相手がどれだけいるだろうか。

この時、Yくんも同じことを考えていたらしく、Yくんが不意にこういった。

「すげえな、いまり!楽しいってつくれるんだな!」

いまでも僕の中でこの言葉は僕の哲学というか信条のように生き続けている。

「楽しいは創れる」

そうなんだよな、何をするかってのは対して重要ではない。

誰とするのかの方が大切なんだ。

プランA

今日を生きるのに、必要なことは、今日やることがあることだ。

明日を生きるのに、必要なものは、明日やることがあることだ。

All I need is just a plan A. Even if I failed plan A, it's fine.

cause I still have other twenty five alphabets.

私に必要なものは計画だ。

計画に必要なものは目標だ。

目標に必要なものは信念だ。

何かを成し遂げたいという信念が目標を生む。

明確な目標は、緻密な計画を生む。

緻密な計画は毎日の小さなタスクへと分解できる。

今日を生きるのに必要なものは、信念だ。

何を成し遂げたいのか。

そうして私は文章を書くことにした

こんにちは。ニンゲンとは、非常に意志の弱い生き物であります。一念発起して今日から頑張ろうなどと、毎日抜かして、明日の自分へと託し続けるのであります。このような、曖昧表現を使うことで特定の人物の話ではなくあくまでも一般論であると主張する私を嘲笑うかのように、私の義姉などは「ニンゲン?」と悪戯っぽく言うのであります。しかし、私は負けじとこの論調を続けることで、あくまでもこれは一般論を述べているのだと首尾一貫して意固地を張るのです。ニンゲンというものは、幸福である間は自己の幸福の要員が定かでないのと同じように、不幸であるときもまたその原因を把握できないものなのであります。完璧主義者の多くが、完璧を求めるあまりに完成に至らないのと同じように、ロマンチストの恋愛は成就しないのであります。バナナのシュガースポットと黄色の割合はかくあるべきなどと主張していると、よくよく、バナナを美味しいうちに食べられなくなることもあるのであります。時計の針がくるくると馬鹿のように回り続けるように、日常は繰り返されて行くのです。地球がくるくると馬鹿みたいに自転と公転を続けるので、朝も夜も季節も巡り巡って繰り返すのです。いつかはそれが終わることなど忘れさせるぐらいに、くるくるくるくると同じことが続いていくのであります。午後6時ごろ、ベッドの中で独り目覚めるのです。チッチッチと今朝、ぜんまいを巻いた懐中時計が時を刻んでいる音が聞こえます。こんなに昼寝してしまったかと気づき、リビングへ足を運ぶと、母親からの書き置きと野口英世のご尊顔が二つ並んでいました。どうやら、これで腹を満たせということのようであります。私は医学博士二名をポケットへと忍ばせ、24時間光続けるコンビニエンスストアへとのそのそと歩き始めたわけです。

無人島へヒトツダケ持って行くなら

無人島へ一つだけ何かを持って行くとしたら?」というありふれた質問がある。老舗の蕎麦屋の座布団ぐらい使い古された質問だけれど、あなたはこれに何と答えるだろうか。もちろん、野暮なことは言いっこ無しな上でだ。「船を持っていってすぐ帰る」とか「コンビニを持って行く」とか「一つだけってことは例えばナイフって言ったら素っ裸にナイフだけなの?」とか「そもそもなんで無人島に行かなきゃ行けないの?」とか「タイトルで一つだけをヒトツダケって書いてあるからそういうキノコでも持って行くのかと思った」とか、言ってたら、野が暮れてしまうんです。浄水器やナイフなどのサバイバル用品を選ぶ人は生きる欲望が強そうですよね。火打ち石とかも便利そうですよね。火種さえどうにかできるならば。ああ、そうです、火種ですね、火種。この質問はただの雑談に用いられる火種でしかありませんよね。この質問自体が独創的で興味深い質問ってわけではありません。しかし、この火種を上手に燃やして楽しい会話へと発展させられる人はいます。ここで最初に話した「船で帰る」とか「わかんない」とか言ってしまうとツマランやつになってしまいますよね。別に完全無欠でなくたっていいけれど、独自の持論を展開できる人は面白いですよね。例えば、「私はサバイバルしていくほどの自信がないからどうせすぐに死んでしまうから紙とペンを持っていって未来の誰かがここに私が生きた証を見つけてくれるように手記を残す」とか。(紙とペンじゃあヒトツダケじゃなくてふたつになるやないかいとか言ったら野が暮れますよ。まあ、そういう茶々入れ自体がこういう会話の醍醐味であったりもするわけですけれども。)さて、話がいつまで経っても本題に入りませんね。そうそう、私が何を無人島に持って行くのかという話でした。

当たり前のこと

ご飯を食べないと力が出ない。

睡眠不足では頭が上手く回らない。

寂しいと辛い。

親は大切。

タバコは体に悪い。

お酒の飲み過ぎは良くない。

何事もやりすぎたら良くない。

世の中に溢れかえるツールは自分をダメにする使い方もあるし、良くする使い方もある。

メンヘラには近づきたくない。

当たり前のことを忘れることがある。

それもまた、当たり前だ。

この世に数多ある当たり前のことをいつでも全てをこなすことはできないのが人間だ。

だからこそ、当たり前に気づいた時は、当たり前に立ち返る必要がある。

今回の当たり前は、何事も使い方次第ということだ。

自分を高めることのできるように、身の回りをカスタマイズしていく。

これからも、試行錯誤を繰り返し、身の回りのありとあらゆるものを自分にとってプラスになるような形にしていこうとおもう。

天才の発言

誰しもが、誰かに言われたことで心に強く残っているものや、いたく感銘を受けた発言というものがあるのではないだろうか。

僕にも沢山あるが、そのうちの一つを思い出した。

僕がとあるベンチャー企業プログラマーのアルバイトをしているときのこと。

そこの社長は元々アクセンチュアという巨大ITコンサルで馬車馬のように働いてから独立した方で、その当時からの付き合いのあるTさんという方を紹介してくれた。

僕は今までの人生で、天才だと思う人に二人だけあったことがある。

一人は、父親のつてで紹介してもらったリンゴの会社のエンジニアの方。

もう一人が、そのTさんだ。

Tさんも元々はアクセンチュアで働いていて、そこから富士通のエンジニアとして転職したらしい。

Tさんは俗にいう天才って人だったと今でも思う。

僕はIQが高いことは特に天才だとは思わない。

IQはあくまで、パズルを解く速度が早いだけで、実社会で際立った才能を見せるとは限らない。

例えていうなら、IQはパソコンのCPUみたいなものだと思っている。

よいCPUの方が演算速度は確かに早いけれど、しょぼいメモリーだったらスペックも大したことはないし、それに何より、パソコンで大切なのはそれをどう使うかである。例えば、超絶スペックのパソコンで、ひたすら高画質のAVを再生していたとして、なんの意義があるだろうか。または、何かに飛び抜けた知識があっても倫理観に乏しかったら困りものだ。

話が逸れた。

天才の定義は人によって違うけれど、シャーロックホームズの言った発言(つまりコナンドイルの発言になるが)が僕にはしっくりときている。

「天才とは無限に努力する人のことである」

Tさんに話を戻そう。僕は社長に引き合わせてもらい、Tさんと話す機会を得たので、Tさんに色々と質問攻めをした。

当時の僕はギラギラしていて、ともかくどうしたら素晴らしいエンジニアになれるのかをTさんから教わろうとした。

そして、Tさんはすごく簡単な回答を教えてくれた。

「そうだなぁ、これはすごくとりあえずの話なんだけどね。まずは足が届く範囲で一番大きい本屋さんに行くといいよ。そしたら、目当ての分野のコーナーに行くんだ。そして、その本棚にある、君が学びたいと思っているものに関する本を片っ端から全部購入するんだ。そして、それを愚直に全部読む。そうしたら、とりあえずその分野で何かしらの仕事にありつけるぐらいにはなってるよ。」

Tさんは"とりあえず"の部分を強調して言った。

ちなみにTさんは高校生の時、このノリで東大受験も合格したらしい。

ぶっ飛んでるけどシンプルな話で僕はその話を気に入った。

先日図書館に言った時、この話をふと思い出した。

そして、"とりあえず"、ここの本を全部読めば大体のことに精通した人間になれるなと思った。

そこで、計算をしてみることにした。

この図書館の蔵書は90万冊。

僕が平均寿命まで生きると仮定すると僕の残りの人生は59年。

日数にして約21500日。

つまり、1日に40冊ぐらい読めばその図書館の本を全て読むことができる。

要するに不可能だ。

この計算はとても雑で、例えば図鑑や地図など”読む”ためのものでない本もあれば、内容の重複したもの、または児童書など新しい知識を得るには非効率なものなどを除外していけば、そもそもの母数は90万冊から大きく減ることにはなるだろう。

しかし、どのみち現実的な数字ではない。

日本速読速脳協会によれば、日本人が生涯で読む本の平均は約2000冊らしい。

(ちなみに僕は速読は信用していない。速読を身につけたくて、速読術という本を速読したけれど内容がさっぱりわからなかったからだ。というのは冗談だけれども、速読は全ての本に適用できるわけではない。速読批評に入るとまた話が長くなりそうだからそれはまた次の機会にする)

図書館の本の0.2%だ。

この世には学べることが無数にある。

しかし、人類の叡智の全てに触れるには、人間の一生は短すぎる。

まさしく、少年老い易く学成り難しなのだろう。

とある保健所の生物学者とお話ししたときに、こんな話を聞いた。

「室賀くん、僕はね、今でこそ生物学者なんて名乗っているけれど、学部生の時の専攻は哲学だったんだよ。それでね、4年間哲学を勉強してわかったことは、この世には一生かけても読みきれないほどの哲学の本があるってことだったんだ。それで僕は当時はまだ(というか未だに)研究があまり進んでいない昆虫の生態学について学ぼうと思って専攻を変えて勉強し直して大学院に入ったんだよ」

どうやら、哲学という分野の本棚ですら、一個人には読破することは難しいようだ。

これにより、Tさんの発言を否定したいわけではない。

むしろ、Tさんは正しいと思う。

興味のある分野の本棚を全部読み漁るぐらいの根気がなければ、"専門職"は務まらない。

問題は、どこの本棚にどれくらいの時間を割くことができるのかという問題だ。

僕らの人生には、図書館の0.2%を学ぶ時間しか与えられていないらしい。

まずは、かじりつきたい本棚が見つかるまでは、乱読を続けることにする。