気持ちを書くブログ

写真撮影、コンピュータが好きです。あと本とゲーム。落語も好き。おしゃべりも好き。

落ちこぼれも悪くない

受刑者の本を読んだ。別にその感想を書きたいわけではないが、内容はともかくとして、なんだか自分の生活が幸せに思えた。自分の世界が閉ざされているような、変わり映えのない灰色の毎日がずるずると続いていくような気持ちになることがある。しかし、そんな折に、受刑者の小説などを読むと、自分がいかに恵まれているかに気づいて、自分の家の芝生が青く見えたりする。そういえば、三年ほど前に付き合っていた女の子と「世界の中心で愛を叫ぶ」をみたときに、その子が「貴方が健康体でよかった」と言って泣きながらハグをしてきたのを覚えている。私は今でもピンピンと生きてはいるがその身体を同じく健康体の彼女が抱きしめることはもうないのだけれど。まあ、それはそれとして。そんなことを考えてみると、人間とはつくずく比較でしか幸せを測れないのだということに気付かされる。人が幸せを実感するときは、ギャップがある時だ。頑張って頑張って辛い時があるから、報われた時に幸せを感じるのである。例えば、何キロも走った後にルームランナーから降りた時は、とても気が楽になる。または、とてつもなくお腹が空いてから食べるご飯の方が美味しい。なんだか、例えが今日は冴えていない気もするけれど、つまりはそういうことだ。もう亡くなってしまったけれど、私の大好きな噺家、10代目柳家小三治が、「子供に勉強しろなんて言わなくていいんですよ。別にやりたくなきゃやんないでいいの。落ちるところまで落としちゃえばいいんですよ。そしたらあとはもうあがるだけの楽しみですから。」と言っていたのを思い出す。その話を始めてきいた時は、中学生か高校生ぐらいだったから、「何を馬鹿なことをいってるんだ、そんなことしたら良い高校にもいけないしそしたら良い大学にもいけないし、そんでいい会社にも入れないし」などと考えていた。視野がとても狭かったので、世間とはそういうものだと思っていた。でも、例えばそうやってエリート高校を出てエリート大学へ入り、エリート商社マンになった人が毎日幸せいっぱいかといえばそうでもないと思う。なぜなら、人は比較でしか幸せを感じられないから。変化がどれだけあっても、気付けば現状の自分が基準になってしまう。だから、もし毎日幸せの人がいるとしたら、毎日、昨日の自分よりも成長できた人だと思う。そう考えてみると、もっとも幸せを感じていられるのは、無理にハードルをあげた人よりも、スタート地点が低い人の方なのかもしれない。亀の甲より年の功というだけある。前のめりに生きていきたい。