窓とシャム猫

はじめに

f:id:neolalu:20180717045917j:plain みなさん、こんにちは。無理に夏の短いセミスターにたくさんの講義を詰め込んで、いまにも泣き出したい ねおらる です。なかなか日本語の文章を書いている時間もなくて、ストレスです。さて、今回は、そんなやつれた僕が窓について考え事をしたので書き下ろしてみました。ほとんどただのポエムです。どうぞ。  

今の窓

あの猫の名前は何というのだろうか。首から胴体にかけては少しくすんだ白色、そして、顔や耳、手足や尻尾の先はこげ茶色をしている。体毛は全体的に短く、すらっと手足が長く、スマートな見た目をしている。僕は猫については無頓着であったので、勝手にペルシャ猫だと思っていた。調べて観ると、ペルシャ猫はもっとずんぐりむっくりとした毛むくじゃらの猫で、正反対であった。その猫はシャム猫だった。こうして、改めて調べてみるまで、僕に判別できた猫は三毛猫と黒猫ぐらいのものだった。朝、たまにシャム猫を見る。目覚めて、カーテンを開き、太陽の日差しを部屋にいれるとき、僕の住むアパートの二階の窓からは眼下に駐車場の屋根が見える。その上に、よくそのシャム猫はこちらに背を向けて丸くなっている。人間もあがってこないであろうそこは、彼にとってはお気に入りのリラックススポットなのだろう。猫は僕にとって、遠い存在だ。猫を飼ったことも、誰かの飼い猫を撫でたこともなかった。野良猫は僕を見れば、そそくさと路地裏へ姿を消した。だから、その窓から見えるシャム猫は、どことなく幻想的で、現実味を感じさせないものだった。ガラス越しに見える、呑気に日向ぼっこしているあのシャム猫は本当に存在しているのだろうか。

実家の窓

確かあれは、小学校4年生くらいだったと思う。初めて自分の部屋をもつことになった。その部屋には大きな窓があった。というよりも、窓側の壁は胸よりも上ぐらいから全てガラス張りで、開放的な部屋だった。僕の部屋は二階で、地元の街並みが見えた。田舎の郊外だったので、ほとんどが平屋の建物で、空は広く伸びていき、遠くの山並みまで見渡すことができた。細い道路を挟んだ向かい側に、ボロボロの平屋の日本家屋がたっていたのをぼんやりと覚えている。土地ごと売りに出されたのか、気づいたらその家は取り壊されて、空き地になっていた。どういうわけか、家を取り壊した空き地には、大きな岩がゴロゴロと積まれていた。それから数年が経ち、地元では少し有名で裕福な父親はその更地を買い取った。ごつごつとした岩が並んでいたそこは、インラインスケートのリンクとなった。パックがご近所に飛んで行かないように、高いネットも敷かれた。それからは、僕はその窓から、ホッケーのシュート練習をする兄をみるようになった。僕の部屋の窓から見える景色は、そうやって移り変わっていった。

寮からの窓 

大学に入学し、僕は学生寮へ入寮することになった。五階建ての新築の学生寮はとても綺麗だった。僕の部屋は、ベッドと勉強机でほとんどが埋まってしまうとても小さな部屋だった。僕の部屋は東向きで目の前には住宅街が広がっており、反対側の棟の窓は西向きで、窓からはコンクリートで囲まれた川が見えた。僕は始め、川沿いの方が涼しそうで羨ましいと思ったが、西向きの棟に住む学生は、蚊がよく入ってくるといって東向きの棟を羨んでいた。学生寮の窓からは、何が見えたのかはあまり覚えていない。きっと、あまり外を覗いていなかったのかもしれない。大学一年生の頃は、ベンチャー企業でバイトをはじめ、サークルを立ち上げてサークル長になり、起業家スクールへ通い、大学の自治会へ入り、毎日大忙しだった。毎日予定があるのがかっこいいと思っていたのかもしれない。窓から景色を眺めるなんて余裕は当時の僕にはなかった。

一人暮らしの窓

大学二年生になり、僕は寮から引っ越して一人暮らしを始めた。家賃の安いボロアパートの四階だった。そこはエレベーターがなく、疲れて帰宅した日や、重たい買い物袋を抱えた日は登るのが億劫だった。窓からは、ごみごみとしたビルが立ち並ぶのが見えた。相変わらず、何かに駆り立てられているように、毎日を生産的にしようと活発でいた僕は、窓から見える景色に気づいていなかった。ある日、遊びに来た友人が、感嘆の声をあげた。カーテンを開けた僕の部屋には、オレンジ色の西日が差し込んでいた。彼は、その窓からの夕日を見て、毎日こんな綺麗なものが見られるなんて羨ましいといった。喜びの声をあげ、スマホで写真をとる都会っ子を尻目に、僕はその夕焼け空を狭く小さく感じていた。田舎育ちの僕にとっては、ビル街の空はとても小さく感じる。夕日から視線を落とすと、その小さな箱庭に閉じ込められたサラリーマンが、夕焼けに照らされながらとぼとぼと牛丼屋に入っていくのが見えた。1Kの小さな部屋から覗く世界は、僕には全てがミニチュアだった。しかし、肉食獣のようにギラギラして、何かを得ることに躍起になり、疲労していた僕には、その小さな景色は確かに綺麗で、どうしようもなく身近に感じ、愛くるしい景色に見えた。

窓と写真

窓と写真は似ている。四角い額縁の中に風景がある。あなたの部屋にはどんな写真が壁に飾ってあるのだろうか。僕は、これまでの人生を通して、幾たびか住む場所を変え、壁に飾る写真が変わった。そこから僕は世界を眺めていたはずだが、もしかしたら外を見ているようで内をみていたのかもしれない。本は、自分を移す鏡だと言う人がいる。読む人、読む時期によって、同じ文章を読んでも感じ方は様々だ。窓から見えるものも同じなのかもしれない。ある人にとっては、陳腐なものでも、ある人にとっては感動すべきものなのかもしれない。そして、その景色とは、もしかしたら、外の情景を移すものではなく、自分の心の内を投影しているのかもしれない。窓は外をみるためにある。ちっぽけな自分だけの空間から、外の世界を見るためにある。夜景を見て、綺麗だと思う心や、夕日をみて美しいと思う情緒、そして、空を見上げるゆとりを忘れたくはない。