気持ちを書くブログ

写真撮影、コンピュータが好きです。あと本とゲーム。落語も好き。おしゃべりも好き。

言葉が意味を生むのか、意味が言葉を生むのか

「考えるヒント」を読んでるよ

こんにちは。ねおらるです。今日はタイトルの通り小難しい話を書きたいと思います。現在、小林秀雄さんの「考えるヒント」という本を読んでいます。これはエッセイ集で、その中の「言葉」というエッセイについて話してみたいと思います。これは少し古い本で初回出版は1974年です。タイトルはとても優しそうなのに内容はなかなか手強いです。はっきりいってあんまりわかりません。同じく批評家の外山滋比古さんの著書「乱読のセレンディピティ」にて「百パーセントわかったつもりの本も、実は本当にわかっているのは、七、八十パーセント。のこりの不明な部分は、”解釈”によって自分の考えで補填しているのである。したがって、本を正しく読んだという場合でもかならず、自分のはたらきで補充した部分があるはずで、まったく解釈の余地のないものは、一ページも読むことはできない。」と行っています。僕も自分なりに「考えるヒント」の中で面白いと思ったアイデアを解釈したいと思いここにまとめたつもりです。僕の読解能力が高ければ、これはただの要約になるだろうし、そうでなければ僕の解釈によってでっちあげた新たなアイデアということになるかもしれません。

要約してみた

本居宣長に、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉があります。つまり、「言葉というものは真似することが難しいが、その意味を真似することは容易い。」ということです。反対のような気もします。ただの言葉を猿真似することはたやすく、意味を模倣することは難しそうです。当たり前ですが、言葉には意味があります。そして、”言葉”と”意味”というものは表裏一体でくっついているようで本当は独立しているものです。なぜなら、同じ言葉を用いても、その言葉の聞き手の解釈によって意味は異なってくるからです。これも当たり前のような気もします。だから、言葉において、意味とは二の次なのです。まず、そこにはただの言葉というものがあり、そしてその言葉が意味を生むのです。子供は言語の習得が早いです。それはなぜかと言えば、言葉に意味を求めないからです。子供はわけもわからず言葉を真似します。そしてその言葉が意味を生み出していくのです。大人になると外国語を学ぶのが難しいといいます。それは大人になると、意味を求めているからです。新しい外国語を聞くたびにその意味を知ることに重きを置きます。子供は違います。大して意味など考えないのです。ただ言葉に触れてその言葉を使役します。だから子供は残酷だという人もいます。確かに子供は平気で強い言葉や無礼な言葉を使ってしまいます。なぜならば、それを”意味”していないからです。子供にとって「ばか」も「くたばれ」も「motherfucker」も大差がないのです。ただなんとなくその場の雰囲気でなんとなく人が使っていたフレーズを使うのです。つまりは人間とは言葉を真似ることによって意味をうむのです。

実体験と結び付けて考える

海外留学をしていて、これはわからなくもないなと思うことがあります。例えば、「Bless you」というフレーズがあります。ご存知の方も多いと思いますが、これは誰かがくしゃみをしたときに周りの人がかける言葉です。これは元々はキリスト教の言い伝えの一つで「くしゃみをすると魂が抜けて病気にかかる」という迷信から「あなたに神の御加護がありますように」という意味でつかっていました。それが慣習となりました。つまり「Bless you」という言葉があります。そして僕はこのようにそこに意味を求めています。現在の使われ方で推察すれば、「神の御加護がありますように」というよりも「お大事に」に近いかもしれません。しかし、日本では他人がくしゃみをしたときにいちいち「お大事に」とはいいません。だからいつも僕は少し戸惑います。自分らしく、つまり日本人の自分というものをそのまま表現すれば、誰かがくしゃみをしたときには無視するべきです。しかし、アメリカにいる以上失礼にもなりえます。だから郷に入っては郷に従えよろしく「Bless you」と言うべきかもしれません。

このように僕は「Bless you」という言葉に意味を求めています。しかし、アメリカ育ちの子供たちはそんなことを微塵も考えていないことでしょう。親が言っているから自分もいうのです。そこに意味はありません。人間とは本来、言葉を模倣することで自分を他者に模倣して社会に溶け込む生き物です。僕だって2歳か3歳の頃に食事の前に馬鹿みたいに「いーたーだきます!!」と手を合わせて叫んでいましたがそこに意味なんて求めたことはありませんでした。もう少し大きくなって自我が芽生えてきてから後付けで親から自然の恵に感謝していただくってことよと言われたり、小学校の先生から農家の人々に感謝していただきますという意味よと教わりました。しかし、現在友人とご飯を食べるときに「いただきます」という言葉を使ったからといってそのように心で意味しているかと言われると甚だ疑問です。言葉は言葉でしかありません。だから、言語を学ぶ上で、あまり言葉に意味を求めてはいけないのです。ただ使う。とにかく使う。それだけです。多くの言葉を知り、賢い人であればあるほど、ネイティブのように外国語を学ぶことができなくなるのはそういうことなのかもしれません。ここからは偏見と悪口になりますが、英語の発音の上達の上手い人ほどその実馬鹿であることが多いです。マジで。「英語ペラペラかっこいい〜!」ってわけもわからずいう人が多いですがあいつら大体馬鹿ですよ。ちょっとこの言葉の意味説明してみてとかいうとはちゃめちゃなこといい出しますから。テレビに出てるハーフタレントとかが良い例ですよね。英語ペラペラだけど、馬鹿じゃないですか。なんてね。全部冗談です。お前が英語の発音そうでもないからってそうやって他人を馬鹿にするなって言われたらマジでぐうの音もでません。

最後に

僕も馬鹿になってペラペラ話していっぱい間違えて恥かいてみようと思います。そしたらもっと英語ペラペラになるかもね。いや、別に普通にこっちの授業についていけるぐらいには英語できるけどね。いやなんのこっちゃねん。最終的に悪口に着地するところが僕の性格の良さがでまくっていますね。ここまで読んでくれてありがとうございます。よかったらみなさんも小林秀雄さんの「考えるヒント」を読んでみてください。そしてその解釈違うよって思ったら議論でもしましょう。では。