オトコエシ
僕は考えている。
コンビニで朝ごはんを買った帰り道のことだ。
僕は目覚めたままのスウェット姿でコンビニでパンと野菜ジュースを買ってきた。時刻は朝5時49分。秋の朝は涼しい。
とぼとぼと家へと戻っていると、電柱の脇に雑草がニョキニョキと生えていた。
そして、僕はなんとなしにその雑草を引き抜こうとした。
それが正しい行動のような気がしたからだ。
小さい頃、母によく「相手の気持ちになって考えなさい」と言われた。
だから、僕は雑草の気持ちになって考えた。
この雑草の親の種子が空気によって無数にばらまかれた。
その多くはコンクリートの上に落ちて発芽することはなかったかもしれない。
そのいずれかは空き地に辿り着き豊富な土壌でむくむくと育ったかもしれない。
しかし、この雑草はたまたま電柱横の小さな隙間に溜まった雨水や土なのか埃なのかわからないようなものの中で運良く育ってきたのだ。
そしてこの雑草は30センチほどの高さにまで成長した。
僕たち人間にとって、見慣れた雑草とはいくらでも生えている珍しくもないものだ。
しかし、一つの雑草に集中して考えてみれば、この雑草も尊いものかもしれない。
いや、そもそも雑草という名前の植物はない。単に名前を判別できないありふれた植物の総称を雑草と一括りにするだけだ。
この雑草の名前はオトコエシという。
僕がスペルマだったころ何億というライバルたちとのレースで一着を取ったような奇跡が、このオトコエシにも起こっているのだ。
だから、オトコエシを引き抜く行為は果たして正しいのだろうか。
いや待てよ、しかし相手の気持ちになって考えるということは何も雑草に限ったことではないような気もしてきた。
僕は電柱の気持ちについても考えてみた。
電柱からすれば、自分の脇に勝手に種子が侵入してきたと思ったらニョキニョキと根を伸ばして、くすぐったくてたまらないかもしれない。
パンツの中に入ってきた蟷螂虫ぐらい不快かもしれない。
だから、電柱の気持ちになって考えてみれば、引っこ抜くのが正解かもしれない。
そして、僕は再度考えた。
いや待てよ、電柱の気持ちってなんだ?そんなものが本当に存在するのだろうか。
それは、証明できることはない。
他人の気持ちとはどうやっても測り知ることはできないのだ。
だから僕は、自分の気持ちに正直であることが最も重要であると考えた。
相手の気持ちを考えることも大切だ。
しかし、その推論を証明することはできない。
だから、相手の気持ちというのを考えた上で、自分が正しいと思う行動を起こすしかないのだ。
結局のところ、人生とは、自分がやりたいようにするしかないのだ。
僕は決断することにした。
僕は電柱を引っこ抜いて帰った。